こんにちは。
空梅雨?!と思いきや、ここのところ、どしゃどしゃと雨が降ってくれて
ほっとする毎日ですね。

さて。
明後日は父の日ですね。

いきなり重い話題で恐縮なのですが、一昨年に父が脳梗塞で入院しました。
その知らせを母からもらった後、父に対するいろいろな想いが胸を去来しました。

私の父はとても変わった人で、私が子供の頃、大切にしていた物を失くして
ガックリしていると、
「物を失くしても、落ち込んだり、心配しないように。必ず地球の上にあるからね。」
なんて言う人なんです。
また、会社から帰ると詩や小説を書いたりの夢見るロマンチスト。
で、優しい人かというと、
私に素潜りを教えるといって、いきなり日本海の深い海にボートから突き落とす。
スキーを教えるといって、いきなり山の急斜面から突き落とす。
テニスを教えるといって、ボールをバシバシ叩きつけてくる。
まさにスパルタの極み。
躾よろしく小学生の時まではバシバシ叩かれもしました。
父は昭和8年生まれの75歳。会社も5年前に引退し、ゴルフ、スキンダイビング、
卓球、映画鑑賞、カラオケ、読書、文筆活動など趣味三昧の毎日を送っています。
以前、父の湯たんぽのエピソードとともに御紹介させていただきましたが、
3年前に、私が沖縄に住んでから200通目の父からもらった手紙がこんな感じでした。

典子さま
父の日のプレゼントありがとう。とても美しいブルーのウェアですね。
この夏は、このブルーの海に潜ります。ただ、私ももう70代、あちらこちらに
微妙な狂いが出てきております。“コトン”と死にたいですが、そう巧くは
いかないかもしれません。いずれにしても日々好きな事をして
幸せに生きておりますからご安心ください。毎日を神さまの御心のままに
生かされているのです。いつお召しがあろうにも悔いはありません。
典子も決して悲しんだり泣いたりしないように。
生けるものには必ず別れはあるものですから。
日頃からその心構えはしておきましょう。
典子の手紙に、“一緒にも住めず、結婚もできず、孫も見せてあげられない娘で
ごめんなさい。私にできる親孝行は何なのでしょうか…”とありましたが、
親孝行しようなんて考えなくてもいいのです。ちゃんと育ってくれて
十分信用しているから。私はね、素晴らしい妻に巡り逢え、恵まれただけで本当に
幸せです。私達には欲なんて全然ありません。絶対親孝行しなければ!なんて
気負って生きなくていいんだよ。自然体で思う通りに生きなさい。
子供は親を踏み台にして生きてゆくのです。それが進化というもの。
親の方だって、本当はそのことがよくわかっているのです。
自分だって、子供であった時があるのだから。
その代わり、確実に幸福になること。
それだけが、典子にできる私達への恩返しでしょう。
では又…生あるかぎりお便りします。
父より

その父が、脳梗塞、で入院したというのです。

実は、父との思い出は、そのほとんどが、厳しくされた、叩かれた、
叱られた、というものでしかなく、いつも思い出すのは、一緒にスキーに
行った時のこと。
「一緒にスキー」なんていうとステキな思い出であるかのようですが、私にとって、
父とのスキーは「苦行」そのものでした。
大阪の街で生まれ育った幼い私が、スキー「1級」の父に連れられ、
雪深い豪雪地帯の山村のスキー場へ。
小さい身体には、道具があまりに重たく、寒さにガタガタ震え、吹雪に打たれた
頬はヒリヒリ。突風でリフトから振り落とされそうになったり、転倒したまま
ゲレンデの下まで落下したこともあります。
それなのに…。
映画やテレビなどで雪の森の風景を思い出すと、なつかしさと切なさで
胸がきゅんと痛くなるのです。
それはいったいなぜ? 雪の世界のいったい何が、私の心をつかむんだろう?

あなたはスキーをなさったことがおありでしょうか?
今は夏ですが、私も久々に、両足にスキー板をつけて、雪の森の中へと
滑りこんでいった瞬間を思い出してみました。
さあっと視野が開けてきます。
滑りはじめれば、まるで空を行く鳥の気分。
2本足歩行の束縛から解き放たれ、翼が生えたかのように、大胆に自由に、
森の中を進んでいくと、ふと、人であることの不自由さを忘れ、山や木々や雪と
一緒に幸福に溶け合ったような気分に包まれます。
煙のように、宙を舞う粉雪。
凍てついた木の幹。厳冬に耐えながらたたずむ、孤独な樹木を見ると、
その命を心から讃えたくなったものです。「おまえもしっかり生きろ」と、
木の内部から温かい声が響いてくるような気がしました。
新雪の上にウサギやタヌキの足跡も発見。とこ、とこ、とこ、とこと、
木々の間を縫って、どこまでも続く小さな痕跡。
頭上では、鳥の声が響きわたります。
厳寒の銀世界の中にも、いろいろな命がしっかりと呼吸しているんだ。
そのとき、自分自身も雪世界の一員となって溶けこんでしまったような、
そんな不思議な一体感に包まれたものです。

少々手荒ではありましたが、そんな学びを与えてくれてもいたんだなぁ、
父は。
今はそう思えるようになりました。

父が倒れるほんの数日前に手紙が届きました。

典子さま
お手紙ありがとう。麗王は13年になるんだね。2足の草鞋を履き続けてきた
典子のがんばりと強運に敬意を表します。
私と典子との思い出は、貴女が生まれてから、沖縄に行くまで、20数年間も
ありましたのに、それほど多く思い出されません。それはお互いの間が
空気のように違和感がなかったからというようなものかもしれません。
それと貴女が私の手におえないような問題を持っていなかったということ
なのかもしれません。
唯一の思い出は、貴女が2・3歳の頃、母さんが朝、私よりも先に仕事に行き、
寝ていた貴女を置いて行った時のことです。
目覚めた貴女が、なぜか急に泣き出してやみませんでした。
その時私はどうしてよいかわからず、今思えば何故だったのか、
貴女が泣き止むまで叩いた事を何十年たった今でも忘れません。
何の善悪も判らない無力なあなたを叩いた事が、後悔と自責の念で、
今でも私の心に突き刺さって、心の傷となって残っています。
これはおそらく私がお墓の中まで持って行く事なのでしょう。
母さんとお見合いをして、恋愛して、結婚して、50年になりました。
少々のぶつかりはありましたが、母さんが7割、私が3割、我慢して
生きてきたのだと思います。
母さんがお料理が上手だったこと。私に対して怒ったことがないほど
優しかったこと。そのことが最大の幸せでした。
だからいつも書いていることですが、お別れの日が来ても
決して涙などこぼさないようにしてください。
笑って見送ってほしいと思います。
くだらないことをぐだぐだと書いてお許しください。
父より

前回までのような陽気な手紙とは違って、病気を予感してか、気弱になった父を
感じました。
2・3歳の時に叩かれた当の私が忘れてしまっていることでも、父の心には
責めとなって今も残っているんだなぁと不思議な気持ちがしました。

親子の関係とはなんなのでしょう。
なぜ親子として生まれてきたのでしょう。

それは、父の言葉を借りれば、魂の進化成長のためなのかもしれません。
よりいっそう愛に近づくために自分を磨いて、いらないものは落とし、
より優しくなっていくためなのではないでしょうか。

必要があって、深い意味があって、私達はその環境、その家族を選んで
生まれています。自分が学ばなければならない命題が学べる場所、
あたたかい愛に向かって成長できる場所に、私達は生まれているのです。

だから、幸せであっても不幸せであっても……私達は学び成長しなければ
なりません。

例えば親子仲が悪いと思うのなら、それを不幸と思わずに、人との調和を
学ぶために生まれてきたのだと大事に受け入れてみる。そこをクリアできれば、
どこへ行っても、スッと人とハーモニーを創れる、優しい人間関係に
恵まれることでしょう。

明後日の父の日は、今までお父さんと距離をおいていたなと感じたなら、
ぜひ話す機会を持ってみてくださいね。
親にはいつまでも長生きしてほしい。いつまでも元気でいてほしい。
誰もがそう願っているはずです。
私も父が元気に退院することができて本当にうれしいです。
優しさ、強さ、温もり、情熱、笑顔、やすらぎ……。
たくさんの愛をありがとう!とあなたも感謝を伝えてあげてくださいね。
もう一歩だけ照れる気持ちを乗り越えて。

そして、いっぱいいっぱいお話してください。
あなたのお父さんへの想い―。

【2009.6.19 末金典子】

さて、
日曜日は母の日ですね。

私は時々、自分の存在に繋がる果てしない人と人との出会いの糸に、
心を馳せてみることがあります。
もしも、母が働いていたおじいちゃん経営の洋食レストランが、
父の働く会社の近くになかったなら…。そして、そのそばの本屋さんで
二人が度々出会わなかったなら、私は今ここに存在していなかった。
さらに、私のおじいちゃんがお坊さんをしていたお寺に、若かりしおばあちゃんが
お参りに行っていなかったなら、母も伯母も伯父も生まれていなかったし、
もちろん私もいなかった。

何だか小説のプロットのようですが、実はたかが私一人の生命の奥にすら
こんなふうなドラマがある、という話です。
自分の生命は自分だけの物ではないということです。

だから、人と人とのささやかな出会いを想うと、いつも胸の奥がとても温かく
なります。
人は皆、守られているのだなぁと。
自分の中に“先祖の皆さん”がいるのです。だから自分の命は、
決して自分だけのものではないのです。
私はこれまで、人生の中で何度も、一人では開けられそうもないほどの
重い扉の前で立ちすくんだことがあります。それでも意を決して、
その扉を開けようとする時ふと、泣きながら力を入れる自分の手に、目に見えない
優しい御手がいくつも重なっていることに気づくことがあります。
力を入れて勇気を振り絞ろうとしている私に、ふと気がつけば、
「もっと力を抜いて。皆、いるから。大丈夫だよ。」とたくさんの手が
重ねられていて、一緒に扉を押してくれているのに気づくのです。
その降り注ぐ愛の力に助けられ、決して開かないと思っていた扉が、
何度開いたことでしょう。その優しさに何度泣いたかわかりません。
気づいてみてください。こんな愛の力が、あなたのおそばにも存在するのです。
一緒に泣き、一緒に笑って、旅をしてくれる同志が、目には見えないけれど、
いつもおそばにいるのです。心を砕いてあなたを守り続けてくれる、
そんな優しい存在があるのです。

だから母の日・父の日というのは親に世辞を言う日ではなく、
自分に与えられた生命を思う日なのではないかと思います。
辿れば自分に繋がる生命に気付きます。生きるということはそれら無数の生命に
感謝しながら自分に与えられた生命を愛おしみながら大切に生きること。
物語を終わらせてはなりません。

最後に。
人生にはいろいろな出会いと別れがあります。
でも、誰にしても最初に出会うのは母親なのです。
これはいかなる意味があるのか―。
そんな意味も想いつつ、日曜日はぜひお母さんに温かいありがとうを
伝えてあげてくださいね。

そして、お聞かせください。あなたのお母さんへの想い――。

【2009.5.7 末金典子】

沖縄のあちらこちらのビーチではもう海開き!
春を満喫しないままにもう夏を迎えようとしていますが、
お元気にしていらっしゃいますか?

早いもので、もうゴールデンウィークがやってきますね~。
あなたはもう何かプランを立てておいででしょうか。
慌しく忙しい毎日です、ぜひともゆっくりとした休息の時間をとってくださいね。

そもそも私達はどこで間違ってしまったのでしょう。
たくさんの人々が、朝から晩まで働きづめで、のんびり休みも取れない日々の暮らし。
望みどおりの人生からは、とうていほど遠い。
身も心も疲れきり、自然と切り離された環境ではストレスもたまるばかり。
子供の頃のように、無邪気に笑いころげたのは、いったいいつのことでしょう。
自分の心をごまかして、無理を通して生きていれば、心も体もずれてきます。
少しずつ、少しずつ、じわりじわりと確実に。
だからこそ休息の時間を持つことは本当に大事なことだと思います。

じゃあ一体どんなふうに休めばいいんでしょう。
おうちでゴロゴロする? どこかにお出かけする? ……?

脳科学者の茂木健一郎さんの本を読んでいて、そのヒントをいただきました!
まず、人間の脳というのは、もともと、非常に「コントラスト」を好む傾向に
あるそうなんです。
明と暗、寒と暖、大と小…。
なぜなら、脳の中ではすべてが「コントラスト」で表現されているから。
「明」そのものにも、「暗」そのものにも情報はありません。ただ、明と暗の
コントラストにこそあるのです。
それは人間が、昼と夜という強烈なコントラストを描く地球という惑星の上で
脳を進化させてきた生物だから。
常に変化のない環境に暮らす生き物ならコントラストは必要ありませんが、
人間、そして地球上のあらゆる生き物は、コントラストを糧として
生命を養うように自身を作り上げてきたのです。
だから私達人間もまた、安逸と熱狂というコントラストを愛さずには
いられないのですね。ゆっくり休息する休日と、一生懸命働く日々と
いうように。

ニーチェが「舞踏」という言葉で神なき世の人間の営みを記述したように、
現代の人間は熱狂的な踊りのただ中で生きているようなものです。
でもその熱狂の本質を知り、生命学的な輝きを心ゆくまで味わうためには、
舞踏のただ中にいるだけではなく、魂を冷やし、身体を休息させて、
そのコントラストの中に、かつての熱狂を振り返る必要があるのです。
この休息の時間は、休息自体が目的なのではなく、生活や仕事が輝いていた
その時間の意味を自分の中で腑に落とす、落ち着きどころを見つけるためのもの
だとも思います。

そしてまた、休息のあり方にも注意が必要です。
例えば、徹底的に絶望すると、底に着くことができますよね。
そうすると、底が足がかりになって浮上していきます。それと同じように、
中途半端に休んでも上昇のためのエネルギーは発生しませんから、
休息の時間を持つなら、その前にまず、徹底的に踊り尽くさなければなりません。
そして休息もまた、底を打つくらい徹底しなければ、というわけです。
自分の中の低い、冷たい魂の硬質な手応えを感じるくらいでなければ
意味がないのです。
つまり、働く時も一生懸命なら、休む時も徹底して、というわけです。

でも、心地よく徹底した休息の時間を持つなんて意外と難しい。
例えば、携帯電話の電源を切ってみる、なんていうのはどうでしょう?
不可視の情報の網からオフラインになった瞬間、まさに安逸の底を打つ感覚が
あるかもしれませんね~。
そしてそれより遥かに深く、というか、遠く熱狂を離れるための対象が、
「宇宙」かもしれません。
宇宙のあり方や、地球の歴史について思いを巡らすことが、私にとって最大最強の
頭の休息の時間。だって、それ以上どうしようもないんですから!
たとえば今、温暖化の問題が騒がれていますが、全球凍結時代、地球全体が赤道に
至るまで完全に氷床に覆われた時代もあれば、そこから温度が100度も上昇し、
生物の形態が爆発的に多様化した、という時代もある。そういう地球の地質学的な
スケールの歴史に思いを馳せると、魂が冷却されませんか~?
要はどれほど大きな客観性を持てるかということ。そうして、直面している生活や
仕事を離れて、自分自身を眺めてみる。それはつまり、現在進行中の自分の思考や
行動そのものを対象化して認識するということです。
海をどこまでも潜っていって、到達した底にあるのは、地球かもしれないし、
宇宙かもしれません。その揺るぎがたい、大きなものに突き当たったとき、人間は
再び、熱狂の陽の下へ浮上することができるのだと思います。

あと、休息するには「距離感」も大切かもしれません。
現在ただいまの生活から、時間的にも空間的にも可能な限り距離を取ることも、
私達にとって休息の時間になります。
だから、あなたもこのゴールデンウィーク、頭の中の休息とともに、身体ごと
どこか遠くに行っちゃいませんか~?

いつも懸命に頑張っておられるあなたです。
ゆっくり休んで、う~んとしあわせな気持ちにひたって、
お休み明けからは、また優しい気持ちで、温かい世界に戻ってゆけるといいですね。

* わたくしの方は、出張も兼ねまして、
初めての、ベトナム(ホーチミン・ニャチャンビーチ)へ行ってまいります。

【2009.4.24 末金典子】