夏本番のこの頃ですがお元気にしていらっしゃいますか?

最近の一般的な傾向としまして、不景気が長引いていること、サラリーマンの
平均年収がどんどん下がってきていることもあってか、男子が外に飲みに
出かけなくなっているといいます。
麗王のような飲み屋さんにとっては致命的~!と思いきや、
ありがたやこの数ヶ月の麗王は女性のお客さまでカウンターを埋めてくださって
います。医療関係、教師、OL、クラブのお姉さま方…。そんな女子会になると
当然のように出てくる話題が恋愛や結婚のこと。

女と男は、お互い「空気」のような関係になれたらいいな…ってことに
なるのですが、それって本当でしょうか?

空気が無ければ生きてはいけませんが、空気って一方では、
無くなるまでその大切さに気づかないもの。
普段は存在をすっかり忘れています。有難みももちろん忘れています。
当然そこにあるものとして。
女と男がそんな関係で本当にいいのでしょうか?

その昔、男が本当の意味の「大黒柱」で、もっともっとイバっていた時は、
むしろ男が家の中で「空気のよう」になっていてくれたら嬉しい…と
思ったはずです。でも今、夫婦の関係は明らかに変わりました。
もともとが「空気のような男」も増えてきた時代、
単に家の中を漂ってもらっても困ります! もっと夫婦の単位で人生を積極的に
楽しむという考え方をすべきなのではないでしょうか。

とすれば、「空気」じゃ物足りませんよね。お互いがお互いを日々の生活の中で
もっと必要としあう関係になるべきなのだと思います。
生涯のパートナーとの関係が、人生の密度を決めると言ってもいいのですから。

そこで思い出されるのが、知りうる限りでもっとも関係が濃密だったのでは
ないかと思える御夫婦、田原聡一朗氏と、故・節子さん御夫妻。
お二人は「おしどり夫婦」どころじゃなくまさに一心同体。命をかけてお互いを
愛した究極の夫婦愛が脚光を浴びたカップルでした。
出会いは、節子さんが53歳の時。田原氏は55歳。まさしく「運命の出会い」を
果たした彼らは、もう出会ってしまった以上、「愛し合わずにはいられない」
というような、やむにやまれぬダブル不倫の末、田原氏の前妻が亡くなられた後に
節子さんが離婚をして結婚。「大人婚」~!
50代の出会いから、節子さんが乳ガンで亡くなられるまでの15年間、
離れている時間の全てをも惜しむように、会話し続けておられたといいます。
田原氏のジャーナリストとしての発言にダメ出しをできるのは、
節子さんだけだったといいます。ともかくすべてをとことん話し合い、
呼吸するように会話し続けたというのです。
だから田原氏は、闘病中の節子さんにまさに献身的に尽くし、
節子さんのガンが発覚した時と、亡くなった時の2度、自殺を考えたといって
憚りません。「きみが人生のすべてだった」と言い切り、今なお遺骨を自宅に
置いておられるとか。(ちょっとこわい!?)

少なくともこの御夫婦を見る限り、夫婦愛とは「会話の量と密度」にこそ
示されるものだと確信できます。それこそ、命を削るほどの情熱をもって
話し続ける。それがこの人達にとっては、愛情表現だったのでしょう。

ニーチェは作曲家ワーグナーにこういう言葉を贈りました。

「結婚生活は長い会話である。
結婚生活では、他のすべてのことは変化していくけれども、
一緒の時間の大部分は会話。それだけは変わらないのだ。」

確かにそうですよね。夫婦も最初は恋人のようでも、やがて兄弟のような関係に
なって、さらには親子のように思えてくる瞬間もあったりして、
ともかく関係そのものは動いていくし、二人でやることも、二人の興味の対象も
少しづつ変わっていきます。語り合う内容も、単純に子供のことから、家のことへ、
老後のことへ、変わっていきます。
でも、二人が一緒にいる時にすることは、ほとんど会話。それだけは変わりません。
長い長い会話をし続けることが、夫婦生活なのだって、本当にそうですよね。
であるならば、二人で何を話しますか?

レストランに夫婦で来て、ほとんど何もしゃべらずに、黙々とお食事を終えて
早々と帰っていく夫婦と、
まるで若い頃と同じように話に夢中になって、出てきたお料理がどうしても
冷めがちになってしまう夫婦とがいらっしゃいます。
二組の夫婦、それぞれの人生に思いを馳せる時、
なおさら「結婚生活は長い会話なのだ」と確信します。
まさしく長い沈黙のような人生を送っていく夫婦と、
長い長いおしゃべりのような人生を送っていく夫婦。
二組の夫婦が生きるのは、まったく対照的な人生です。
そして、夫婦の相性とはまさにそこで測るもの。
レストランで黙っているか、会話し続けるか、
それが生涯レベルの相性なのだと言ってもいいでしょう。
だから、何としてもずっと会話し続けられるパートナーと出会うべきなのです。
男も女も、人生かけて。

考えてもみてほしいのです。男と女は、出会ってしばらくは、本当によく
おしゃべりします。相手のことを、自分のことを、そしてお互いをどれだけ
好きかということを、ともかくしゃべり続けます。
でも話し尽くしてしまうと、途端に会話が減ります。会話が減ると恋愛感情が
少し冷めます。いえ冷めるから会話が減るのかもしれません。
でも男と女の本当の関わりはそこから始まります。お互いの話をし終わってから、
一生終わらない「女と男の会話」に入っていくのです。
たとえばですが、今日のニュースの話や今度見たい映画の話や
道端に咲いているお花の話や…そんな何でもない日常的な話題で2時間も3時間も
会話が続いていくということなのです。もちろんそれを入り口にして、
話題がいろんな広がりを見せていく。そこに夫婦の幸せがあるのは
間違いありません。

そう、だから日々「長いゴハン」も必要です。
レストランで無言になってしまうのは、家の食事はいつも、アッという間に
終わり、あとはTVを見ているか、めいめい好きなことをしているだけだから。
夫婦の会話はやっぱり「充実した食事」が自然にもたらしてくれるものなのです。
ゆっくりとだらだらと食べましょう。その間をつなぐのはもちろんお酒と会話。
せめて休日のお夕食だけでもそういうお食事ができたら、会話は長く長く続き、
そして生きていることそれ自体を喜びに感じるでしょう。

人は楽しく話をしている時と、食べている時に、
言い知れない幸せを感じ、人生の悦楽を覚えるそうです。
今年の夏休みにはぜひおいしい夕食を用意して、なるべく長く食べ、
なるべくだらだら話しながら、楽しい時間をお過ごしくださいね。男と女で。
もちろん麗王でも。

【2012.7.17 末金典子】

まだ梅雨も明けきらない気候ですが、みなさんはお元気に楽しい日々を
お暮らしでしょうか。

日曜日は父の日ですね。
母の日に比べるとなんだか盛り上がりに欠ける父の日なので、
お父さんにしっかりありがとうを伝えてあげてくださいね。

先月の母の日の麗王便りでは、母から教えられた「成長すること」について
書かせていただいたのですが、
父の日は何を書こうかしら…去年は一体何を書いたんだっけ…と読み返してみると、
去年は父の「のんき」について書いていました。さぁて今年は…と考えつつ、
ここのところ読んでいる脳科学者の方のいろいろな本をぱらぱらめくっていると
ふと思いついたことがあったので、その茂木健一郎さんのエッセイを
少し御紹介いたします。

「心の美しさは、ずっと変わることができるということの中にある。
何歳になっても、新しいことに出会って感動することさえ忘れなければ、
未知のものとの出会いを大切にしその楽しみに向き合っていれば、
健やかな美しい心を保つことができる。
「変わらない美しさ」というよりはむしろ、
「ずっと変わることができる」ということが私達の人生を豊かにしてくれるのだ。

そして、その豊かさに満ちた人生を送るために必要なことは、

まずは「行動する」こと。
いつかはいいことがないかと夢見ていても、幸せは向こうからやってこない。

次に「気づく」こと。
恵みをもたらす未知のものと出会っても、その存在に気づかなければ、
意味がない。

最後に、「受け入れる」こと。
今までの人生観や価値観にこだわって、せっかくの出会いを受け入れなければ、
すべてが水の泡になってしまう。」

なるほど! と思うのですが、歳を重ねるにつれて難しくなってくるのが、
この最後の「受け入れる」ことではないでしょうか。
今までの自分のやり方でいいのだと固執していては、
確かに大切な変化のきっかけをつかみ損なってしまいがちですし、
心が歳を取ってしまいます。
心の美しさってつまりは、何歳になっても淀まずに変わることのできる柔軟さ、
ということなのでしょうね。

このようなことを考えていて、思い出したのです。
父にプレゼントでもらった本・博物学者ライアル・ワトソンの「未知の贈りもの」。
生涯にわたってさまざまな著作を世に送り出したワトソンですが、若き日々を書いた
この本は、独特の感性に満ちていて美しい名著です。

ワトソンは、インドネシアの島に調査にでかけます。ある時、船で夜の海に出ると、
暗闇の中、ワトソンが乗った船を、たくさんの光が包み込みました。
その光達は、まるで生きているかのようにふるえ、脈動し、響き合います。
それは、イカ達の巨大な群れでした。
イカ達が、発光しながら、まるで群れそのものがもう一つの巨大な生きもので
あるかのように、ワトソン達が乗った船を包み込んでいたのでした。
ワトソンはその体験を通して考えます。イカの眼球は、非常に精巧に出来ている。
世界のありさまを、詳細に映し出している。ところが、イカの神経系は、それほど
発達していない。なぜ、見たものをそれほどよく「理解」できないのに、目だけは
発達しているのか。
ワトソンは、一つの考え方に思い至るのです。
イカ達は、ひょっとしたら、もっと巨大な何ものかのために、周囲の様子を
見ているのではないか。個体を超え、ひょっとしたら種さえも超えた、
巨大な生態系、自然そのもののために。
個体間の、あるいは種を超えた生物間の複雑で豊かな相互作用が
明らかにされた現在、ワトソンの考え方は、荒唐無稽であるとは決して言えません。

人間には、はっと気づく瞬間というものがあって、その前後で、本当に世界が
変わって見えるものです。問題は、自分が出会ったものを受け入れられるかどうか。
ワトソンと同じ体験をしても、「ああ、イカか」と深く考えないで
通り過ぎてしまう人もいるかもしれません。自分の経験が潜在的に持つ意味を
「受け入れる」ことができたからこそ、ワトソンは変わることができたし、
その後のさまざまな仕事の礎とすることができたのではないでしょうか。

子供の頃、この本のようにクリスマスやお誕生日にプレゼントをもらうのが
すご~く楽しみでした。あの頃のわくわく感、まるで、そのことによって
自分の人生が変わってしまうのではないかと思うほどの喜び。
そんな飛び上がるような気持ちを、私達はいつまでも忘れないでいたいものですね。

人生なんてこうだ、こんなものだと、決めつけてしまってはもったいないでは
ありませんか。
いつも、心のどこかに、「贈りもの」のための場所を空けておく。
そして思わぬ出会いがあったら、ちゃんと立ち止まって、それを受け入れる。
そんな心の余裕がある人は、いつまでも若く美しい心なのだと改めて思いました。

父からもらったのは本でしたが、云わば、人生そのものが「未知の贈りもの」
だったのだなと今では思っています。

日曜日はどうぞ温かな感謝の日をお過ごしくださいね。

【2012.6.14 末金典子】

雨や曇りも多いゴールデンウィークでしたが
それでもまとまったお休みというのはのんびりとしてうれしいものですね。
あなたはゆっくりとリフレッシュなさいましたか?

さて次の日曜日は母の日ですね。
毎年この月のお便りは母から学んだ「謝ること」「働くこと」
「出し惜しみしないこと」といったことなどを書かせていただいているのですが、
今年は「成長すること」について書こうと思うのです。

私の母は昭和9年生まれで、戦争のための疎開など激動の日本を生きてきた
世代です。大変な苦労もあったようですが、実家の洋食レストランの仕事を
切り盛りしながら家族の世話もこなして生きてきた頑張りやの女性です。
私が以前家族と一緒に大阪で暮らしている頃に、仕事や人間関係のことで悩んで
「私っていつもこんなことばかり悩んでいて一体これでも成長しているのかなぁ」
と、母に相談するとよく言われたのが、
「お母さんの若い頃は暗い時代やったよ~。
そやけどハングリーやったから仕事ができたし、なにより希望があったの。
それって闇の中にも光は必ずあるということやよ。
とにかく、やり続けること。
何もしなければ何も始まらないんやから。
それが成長するということやよ。」と。

「成長」……これは人にとって絶対のキーワードですよね。

でも、実際のところ、成長とは何なのでしょう。
何をもって、成長というのでしょうか。
成長にこだわり続けている人は、果たしてちゃんと成長しているのでしょうか。

たとえば今ここで、あなたがこの数年の間に、どう成長したか、
ちょっと思い浮かべてみてください。

中途採用の面接で、
「あなたはこれまでの仕事を通して、どんな成長を遂げましたか?」と聞かれた
25歳くらいの応募者が、ここぞとばかりに10も20も自分の成長をとうとうと語り、
止まらなくなったのだとか。私は人を心から気遣うことができるとか、
人のために汗を流すことができるとか。
面接にあたった人は、あなたそれ、ホントの成長じゃないかもと、
ノドまで出かかったのだとおっしゃっていました。
それはおそらく、人間は本当の意味で成長すると、逆にまず自分の小ささや
「しょうもなさ」がわかってしまうものだからではないでしょうか。
社会に出た時、世の中にはこんなにすごい人がいるんだとか、こんなに立派な人が
いるんだとか、むしろそういうことに気づくのが、
社会人としての成長なんじゃないかと思うのです。

従って、いっぱしのオトナになったつもりでいたけれど、そう思ったこと自体を
逆に恥ずかしいと思うのが、この年代の成長なんだと思うのです。
ダメな自分に気づく方が、ずっと大切な成長なのです。
自分を大きく見せるのじゃなく、むしろ自分を小さく見せようとする人の方が、
絶対成長しているし、今後の成長も早いはずです。

つまり人間、そんなにすごい勢いで成長したりはしないのでしょう。
だから一歩一歩、少しずつでいいのです。
自分がどう成長したかなんか、わからないくらいでいいのです。
それでもちゃんと成長はしているのだと思います。
自分は社会に出て10年もたつけれど、果たして成長しているの?と
不安に思うくらいの人がじつはちゃんと成長しているのです。

母の締めくくりの言葉はこうでした。
「自分の成長は?成長は?と、そこにばかりとらわれるよりも、
今はまだとりあえず苦しいことも辛いことも、イヤなことも、何でもやっておく。
それがすべて見えない成長になっていること、覚えていなさい。」

今もこの言葉は私の宝物です。

人生で最初に出会うお母さん。
日曜日は温かいありがとうの日をお過ごしください。

【2012.5.11 末金典子】