いつもよりは暖かめのお正月でしたが、あなたはいかがお過ごしでしたでしょうか。
私はと言いますと、ごくごくオーソドックスに、大晦日は年越しそばをいただき、
紅白歌合戦を観て今やもうついていけない流行歌のお勉強をこなし、
おせち料理をゆっくり作り、お雑煮・お屠蘇とともにいただき、
初詣には普天間神宮までランニングで行ってお参りをし、
あとは読書とDVD三昧というお正月でした。

昨年末に印象的だったのは、街行く人々の顔が、
「クリスマスだ~!」「もうじきお正月だ~!」とウキウキとあまり浮かれて
いなかったことです。
夜の松山の街も人手がめっきり少なくなって、
沖縄もやはり本格的に不景気なのだなぁと感じました。
みなさんの懐具合の方はいかがでしょうか。
そこで年の初めに「生きたお金」について考えてみたいと思います。

お金のために生きるのはいやだなぁと思います。でも、お金は必要。
お金に支配される人生は避けたいけれども、お金で不自由して、
自分のやりたいことができないのは悲しいことです。

きっと、人それぞれに、生きたお金の使い方、お金の活かし方というのが
あるのだと思います。もっとも、どのように運用すると利回りがいいか、という
類のお話ではありません。人間の世界との関わり方のどこかに、「生きたお金」
という「てこの支点」があるように思えるのです。

たとえば、人にあげるプレゼント。高いものをあげるのがポイントなのではなくて
どれくらいその人のことを考え、工夫したかということが問題になります。
お金は、どんなものにも換えられるという通用性があるけれども、むしろ、
他のものでは代え難い何かになるからこそ、生きることもあるのです。
たとえば私が今までうまくいったなあ、と思うプレゼントとしては、
社会人になって初めていただいたお給料で、
「ひなびた三島の温泉に行ってみたい」とよく言っていた今は亡き祖父母に旅を
プレゼントしたことが、かけがえのないよいお金の使い方だったと思っています。
祖父母が亡くなる前にも「あの旅は本当に楽しかった。いい思い出になった。
ありがとう。」と言ってもらえてこちらまでうれしくなりました。

お墓までお金を持ってはいけないというのはその通りで、せっかく所有していても
自分の生きている時間の中でそれをうまく活かさないと意味がありません。
預金通帳の残高を見てにんまりしていても、それだけでは幸せにつながりません。

また、「資本」のあり方についても同じことが言えます。
「資本主義」というように、何とはなしに個人の生活とは関係ない
企業経済や資本家階級の人々に関わることと思いがちですが、実際には
私達の生活に「資本」は深くかかわっています。

自分の住むところや、受けた教育も一つの資本。ある程度まとまったお金があると、
それを資本にして、自分のために注意を振り向けられます。その時間を使って、
新しい仕事に挑戦したり、各地を旅行して見聞を広げたり、他人のために何かを
してあげたりすることができます。

「種の起源」を著して進化論を開いたチャールズ・ダーウィンは、生涯定職に
就きませんでした。親から受け継いだ財産で田舎に家を所有し、そこで自然を
観察したり、資料を整理したりして人類史に残る偉業をなしとげました。
これぞ見事な「資本主義」ではないでしょうか。

資本があるということは、つまり、未来の自分に対して、さまざまなことを
積み上げていくことができるということ。日々の生活に追われるだけではない、
心の余裕とヴィジョンの艶を持つことができるということが、資本の意味。
まさに、生きたお金の使い方だと思います。

ダーウィンのようには恵まれていなくても、小さなスケールで資本を自分や他人に
投入することはできます。「ささやかな資本主義」こそが、人生を豊かに
するのです。お金は、モノを買うためだけにあるのではありません。
人間に投資して、初めてそれは「生きたお金」になるのです。
今年からの資本主義はそうありたいものですね。

さぁ、新しい年です。
新しい自分も始まります。
これってあたりまえのようですが、本当に素晴らしいことですよね~。
去年どんなにいやなことや辛いことがあったとしても、
年が明けたら、またまっさらになって、新しい年、新しい自分が始まる。
人の知恵って、とっても素晴らしいなぁと改めて思います。

さて、次の月曜日は七草です。
歴史は平安時代にさかのぼります。
朝廷では一月七日に若葉を摘み、冬の寒さを打ち払おうとする習わしがありました。
一方、海を隔てた中国でも、この日に7種類の菜の煮物を食べれば、万病に
かからないという言い伝えがありました。
七草がゆは、この日本と中国の風習が合体し、一月七日に、一年の無病息災を願い
七草を入れたおかゆをいただいて、冬に不足しがちな野菜を補い、お正月の
暴飲暴食で疲れた胃袋をいたわるという古人の知恵が、現代に行き続けている
行事なんです。
お休みモードからふだんの生活に切り替えるきっかけとしてはとっても
おすすめです!

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

【2013.1.4 末金典子】

お元気でしょうか。
毎月こうしてお便りを書かせていただくことを心から嬉しく思っています。
いつもほんとうにありがとうございます。

週明けはクリスマスですね。
クリスマスの由来は諸説あるのですが、古代ローマ暦の冬至の日に行われていた
太陽神への収穫祭が最初で、のちにキリストの生誕祭と結びついてクリスマスに
なったと言われています。
冬至の頃は、日が短く寒く、古代の人々は闇への不安や恐れを感じる一方で、
不滅の太陽を信じて、盛大なお祭りを各地で行っていたようです。
クリスマスに様々なお料理を食べるのは、その年の収穫物をすべて食卓に
並べていた収穫祭の名残だとか。
クリスマスを厳かに過ごす習慣は、昔太陽が休んでいる時期に騒ぐと光が
戻ってこないと信じられていたためなのだそうですよ。
これらは現代のクリスマスにも引き継がれていますね。
恋人とロマンチックに過ごしたり、家族や友達同士でワイワイ騒いだり…が
主流のジャパニーズクリスマスですが、あなたはどんなふうにお過ごしに
なられるのでしょうか。
麗王でも特製クリスマスケーキとともにお待ちしていますよ~。

そしてクリスマスが終わるともう新年。
政治の世界でも政権が変わるなど、いろいろ変化の多い年でしたが、
私達は社会の激変に呑み込まれることなくどのようにしたらこの時代を
うまく泳ぎ切ることができるのでしょう。

福沢諭吉の「学問のすすめ」をお読みになったことがおありですか?
私も学生時代に読んだことがあるのですが、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」…というあれです。
ふと思いました。「あれ? その次に続く言葉って何だったっけ?」と。
それで、130年以上も読まれ続けるこの世界的名著の中に何か今を生きぬく知恵が
あるのではと、福沢諭吉本を何冊か買って再読してみることにしました。
やはりありました。素晴らしい言葉の数々が。
その中から一つだけ御紹介させていただきますね。

渡り鳥である雁の群れには、それが十羽であれ、五十羽であれ、
必ず奴雁(どがん)と呼ばれる一羽がいるそうです。
雁が渡りをする際には、その群れの中で、常に危険を予測してそれに備える雁を、
奴雁というのです。
群れが多かろうとも、奴雁は一羽しかいないらしく、空を飛んでいるときや、
群れが羽を休めて餌をついばんでいるときなど、どんなときでも、
奴雁は決して休むことなく、首をぐーっと長く伸ばしてまわりをよく観察し、
もし危険なことが起きそうだったらすぐに大きな声で鳴いて知らせ、
群れを安全なところに導いていくというのです。

教育論集の中で福沢諭吉は、学者とは、国の奴雁であれと綴っています。
今が豊かでしあわせな社会であったとしても、学者は常に一人孤独で、
命がけになって、集団や組織、地域を守るべく、
奴雁の役割をしないといけないと。

私は、奴雁という存在をひとつも知らなかったので、
いたく感動してしまいました。そして、社会という長いものに巻かれずに、
一人孤独に、命がけになるという奴雁の生き方や仕事に心を打たれたのです。

そして考えました。今、私達の家庭で、地域で、会社で、日本という国で、
そして世界という地球全体で、ほんとうの意味において奴雁の役割をしているのは
何だろうかと。
また、自分自身が奴雁となって守るべきものは何だろうかと。

今こそ奴雁の精神を学ぶべき時代ではないでしょうか。
これはなにも学者の世界だけのお話ではないのです。
私達は誰しも、スケールの大小はあるだろうけれど、一羽の奴雁であることを
忘れてはいけないということを強く感じました。
そして、これからの暮らし方、働き方、過ごし方、生き方を、
新たにするためのヒントを、私は奴雁から学びたく思いました。

さて。
今年も残すところ10日ほどとなりました。
この一年本当にお疲れさまでした。
今年もいろいろと苦労があり大変でしたね。
あなたは今どんなお気持ちでお過ごしでしょうか。
お疲れになっていませんか。
心配事はございませんか。
夜はよく眠れていますでしょうか。
ご病気などされていませんでしょうか。
楽しいことはありましたか。
困ったことなどありませんでしょうか。……
日々麗王に立ちながら、ふと手をとめて、こんなことばかりを思います。
あの人のお顔、この人のお顔…。
とても不安定で、不景気な今、たくさんのお店の中から、麗王を選んで
いらしてくださることが、どんなにありがたいことかと考えると、
こんなふうにみなさまのことを思わずにはいられないのです。
この前いらしてくださった時、何かひとつでもお役に立つことはできただろうか。
行ってよかったと思っていただけただろうかと、一人一人のお声を聞きに
お伺いしたい気持ちで一杯です。
いつものように麗王に行ってはみたものの今日はつまらなくて損をしたと
がっかりされないよう、みなさまの大切なお金を無駄にしないよう、
隅々まで心を配り、そしてみなさまにどんなふうに楽しく時間を
お過ごしいただこうかと深く考えながら、反省もしながら、
お一人お一人の肩にそっと手を当てるような気持ちで、
これからも麗王に立たせていただきます。
みなさまのおかげで、こうしてまた一年間、麗王を続けることができました。
本当にありがとうございました。
どうか来年からもまた麗王にいらしてくださいますよう心からお願い申し上げます。

あなたが穏やかに一年を締めくくることができますように。
そして何よりも、どうかこの上もなくお幸せでありますように。

【2012.12.20 末金典子】

随分ひんやりしてまいりましたね。先月まではまだ暑くて、窓を開けて眠っていて
泥棒に入られてしまった私も、防犯の意味だけではなく寒さのためもあって
今では窓をしっかり閉めて眠っております!

さて、その泥棒騒ぎの件では、みなさまからたくさんのお見舞いのお言葉や
麗王にわざわざいらしてくださっての励ましをいただき
本当にありがとうございました。
現金などは盗まれてしまいましたが、改めて自分にとっての財産とは何なのかを
考え、感じることができました。

この事件、私にとっては結構ショックな出来事でした。
「私が防犯を怠っていたからこうなったんだ」「普段の行いのいけないところが
こうしたことを招いたんだ」などと随分自分を責めたりもしました。
犯罪学でいうと、私のように泥棒に遭った人だけではなく、暴力を受けている人や
レイプに遭った人など犯罪に遭った人は一様に自分を責めるのだそうです。
それは「私にどうしてこんなにひどい事が起こったんだろう」というつらい心の
一つの落としどころとして「自分のせいで」と理由付けをするのだろうと
日本銀行の杉本支店長が教えてくださいました。なるほど。

一方、泥棒に入った犯人の方はというと、刑事さんのお話によると、
意外と罪の意識などはなく、一日に何軒も泥棒に入ったりして稼いでは
その日暮らしをしているのだとか。
こういう人は心理学でいう、つらいからという理由で簡単に仕事をやめてしまう
人達や麻薬や覚醒剤に溺れる人達に多い「快楽型人間」そのものです。
「快楽型人間」にとっては、努力は苦しみ以外の何ものでもなく、
努力のない人生こそが幸せな人生なのです。
でも人間は、努力なしではけっして幸せには生きられないのではないでしょうか?

こう考えていて、昔観た「トワイライト・ゾーン」のエピソードを思い出しました。
ドラマの主人公は、逃走中に殺された残酷な犯罪者です。彼は殺された直後、
ある天使に迎えられます。その天使は、彼のあらゆる願いを叶えるために、そこに
送られてきました。その男は、自分が天国にいることが信じられません。
犯罪者としての過去を忘れてはいないからです。でもすぐに、その幸運を受け入れ、
自分の願いを列挙しはじめます。
するとそれらは、すべて叶えられます。どんなに多くのお金を求めても、そんなに
ぜいたくな食べ物を求めても、すべて与えられます。美しい女性達を求めると、
彼女達が現れます。まさに、これ以上は望みえない生活に思われました。
ところが、彼はあるころから、何でも思い通りになるその生活に、喜びを
見いだせなくなります。努力不在の生活が、退屈でたまらなくなったのです。
そこで彼は、やりがいのある、挑戦的な仕事がほしいと天使に訴えます。
すると天使は、この場所では、ほしいものをなんでも与えられるが、ほしいものを
手に入れるために働く機会だけは例外だと答えます。
努力目標が何一つないまま、この犯罪者はイライラを募らせます。そしてやがて、
がまんが限界に達し、その場所を離れて「別の場所」に行きたいと訴えます。
つまり、この犯罪者は自分が天国にいるものと信じていて、そこがいやに
なったので地獄に行きたいと考えたのです。
ここでカメラが天使の顔を大映しにします。
天使の優美な顔が、いかにも邪悪そうな顔に変わります。そして、悪魔の不気味な
笑い声を上げながら、彼は言います。「ここが、その別の場所なのだよ。」

目標も、挑戦すべきことも、努力もない快楽主義的な人生は、私達をけっして
幸せにはしません。
私達は、谷間にいようと、頂上にいようと、くつろぐのではなく、より上を
目指すように作られているのだと思います。

人間は誰かに喜ばれるために生まれてきます。
そして喜ばれている自分を発見して成長する生き物です。
人間の成長は、もっと喜ばれる人になりたい、何をすれば喜ばれるだろうかと
考えることで生じます。
これからの時代は大変厳しくなることと思います。今までの常識も通用しません。
それでもどんな時代でも共通する生き方があります。
それは喜ばれている人間は常にどんな社会構造になっても必要とされるので、
喜ばれるために新しいことを考え、もっと何かができるだろうと考え行動すること
なのだと思います。
また誰かに喜ばれている人間の役割は、仕事の役割と同じです。
仕事の役割はお客さまに喜ばれることなのですから。
仕事の中にこそ実現する人生があり、だれかに喜ばれる自分をつくることこそ
人生なのです。
つまりは仕事をすることは自分の時間を誰かの喜びに変えることなのですね。
こう考えたら、先日の泥棒さんもなんだか気の毒な感じさえしてきました。

最後に、いやな事が起こった時、いつも私がいつも繰り返し唱える八木重吉さんの
「ゆるし」という詩を御紹介いたします。

神のごとくゆるしたい
ひとが投ぐるにくしみをむねにあたため
花のようになったらば神のまへにささげたい

与えられる物事の一つ一つを、ありがたく両手でいただき、
自分しか作ることのできない花束にして、笑顔で、神さまに捧げたいと
思っています。

さぁ、明後日の木曜日は今年のボジョレーヌーボーが解禁となる日です。
一生懸命働き、喜ばれているあなた御自身への御褒美に、今年の新しいワインを
プレゼントしてあげてくださいね。

(麗王では今年はJAL国際線ファーストクラスで唯一採用された
EUオーガニック認証ボジョレーヌーボーを御用意いたしております。
酸化防止剤は入っておりませんので安心してお召し上がりくださいね。)

【2012.11.13 末金典子】