今回の台風は来るような来ないような、のろのろ・ゆるゆる台風ですが
なんだかもう大丈夫なようですね。
そして季節は秋へ。
来週はハロウィンです。
ハロウィンの始まりは、古代ヨーロッパの原住民ケルト族の宗教行事。
11月1日を新年とする彼らはその前夜に死者の霊が訪れると信じ、充分な供物が
ないと悪霊に呪われると恐れていました。そのため魔よけをし、同時に秋の
収穫を祝う祭りを行っていたとか。
その後、多くの聖人たち(Hallow)を祝う万聖節となり、近年、欧米では
魔女やお化けなどの仮装をした子供たちが
「Trick or treat!(お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!)」と家々を回ったり
仮装をしたりして楽しむ日に変化しています。
日本でも注目されるようになったのはここ20年ほどのこと。
このハロウィンといい、クリスマスやバレンタインデーといい、
もう日本のひな祭りやこどもの日のような「年中行事」になりつつありますね。

私の祖母や母は、関西人ということもあってか、とにかく「年中行事」や
「お祝い事」を大切にしていて、五節句やお誕生日やクリスマスなどはもちろん、
1月はお正月にやるべきことはひと通り。松の内があけると同時に七草がゆ、
11日は鏡開き…などとしきたり通りに行事を次々にこなし、
それだけでとても忙しい家族でした。またそれをいつも生き生きと楽しそうに
こなしているようでもありました。

もともと前向きでエネルギッシュな関西女達だからそういうことを楽々と
こなすことができるのだろうとずっと思っていたのですが、ある時ふと
それはまったく逆ではないかと思うようになりました。
つまり、毎月毎月確実に訪れる行事を、ひとつひとつきちんとこなすごとに、
ひょっとしたら命を浄化して、生命力を高めてくれるような作用が
あるのではないかと、そう思い始めたのです。

言うまでもなく年中行事は、そもそもが神さまをまつるために宮中で始まったもの。
宗教的な意味合いがとても強いものの、民間では豊作を祈るものだったりして、
どちらにしても人が生きるうえでの重要な意味を持たされていました。
その語源は、毎年恒例の行事を忘れないように書き記された表に
由来するということで、そこはとても人間的。でも宮中の人々はそれらを次々と
こなすことを生きがいにしていたのではないでしょうか。これほど「退屈」を
回避し、「達成感」を得ることができるものもないから。

人生の「節目」は、苦悩や試練を伴うこともあるけれど、
人はそれこそ「節目」がないとうまく生きることができません。
節も何もない1本の棒を登っていくのは不可能で、「節」があるからこそ
それを足掛かりにして、危なげなく上へ登っていくことができるのです。
だから「節目」の多い人ほど高みに昇ることができるのだと私は思います。
何のひっかかりもないつるりとした平坦な人生を生きている人は、
うっかりすると同じ場所にぼんやり居続けたりしかねません。
上へ登る気力も体力も必要ないから、身も心も生き方も脆弱になっていく。
何もない退屈な日常をただぼんやりと生きていると、前向きさもエネルギーも
いらないから、人間が輝かないのです。

だとすると、朝昼晩、1ヶ月1ヶ月、そして春夏秋冬と区切りをつけ、
別々の時間としてきちんきちんと生きる人が、生き生きしていて幸せなのでは
ないでしょうか。
その区切りもただただ暦を眺めているだけでは少しも区切られません。
そこは昔人の知恵。人をぼんやりさせないため、それぞれに意味もしきたりも
違う「年中行事」が生まれたのでしょうね。それは人間が生き生きと1年を紡ぎ、
1日1日を幸せに営むための意外な手段なのでしょう。

また、年中行事は「ひとり」でやるものではなく、そのたびに家族が集まって
お互いの無病息災を願い合います。当然のことながら絆が深まって、
その「特別な食卓」を囲むとき、人は無情の幸せを感じます。
だから「年中行事」をきちんとやる人ほど、忙しいけれど生き生きとしているし、
決してぼんやり年をとらないから、いつまでも若々しいのでしょうね。

さぁ、月末のハロウィンはあなたも子ども心に戻って楽しんでみてくださいね。
私も魔女の扮装であなたをお待ちしております!
え? 扮装しなくても魔女ですって?

麗王に来てくれなきゃイタズラするぞ!

猛暑の夏も少し落ち着き、お盆も過ぎて、
今月は重陽のお節句や十五夜のお月見、敬老の日・秋分の日の連休と
もう秋の訪れですね。
あなたは夏のお疲れなど出てきてはいませんでしょうか。

私はといいますと、先月の旧盆の時にお誕生日を迎え、あたたかなお誕生日会を
開いていただき、思い切って4連休の夏休みも取らせていただきました!
4日間もお休みがあると、心身ともにほっと落ち着いて、
日頃の疲れが日を追うごとにゆっくりゆっくりと出てきます。
いつもなら短い睡眠時間でもぱっと目が覚めるのに、4日間もお休みして
のんびりしているにもかかわらず、どこまでも毎日たっぷり眠れてしまうのですから
もうびっくり! 知らず知らずのうちに疲れって溜まっているものなのですね。
で、その4日間一体何をしていたのかといえば、いつものお休みの時と
なんら変わらず、たっぷり眠って、ランニングして、お風呂にゆったり入って、
手の込んだディナーを作って食べて、後はもう、観たかったDVDと
読みたかった本を心ゆくまで…の繰り返しでした。

でもそうしてのんびり過ごしていると「ぼうっと」する時がしばしばあるのです。
人間って誰しも「ぼうっと」する時がありますよね。
たとえば、会議やセミナーなどの席で話がわかりにくい時や、好きな人ができた時、
何かしら衝撃的なことが起こった時、ついつい飲みすぎてしまった翌日などには、
ぼうっとしている人が多いのではないでしょうか。
私など子供の時からいつも空想の世界に入っておりましたので、
頭の中は動いていたとは思うのですが、傍から見るとぼうっとした子供に
みえたかもしれません。

人間は一日の三分の一の時間は空想にふけっているそうですが、
ぼうっとした外見で判断してはいけないそうですよ。
心理学の研究から、脳はそのような時に休んでいるのではなく、
活発に動いていることがわかっているそうです。
私もよくランニングで海べりを走っている時やお風呂に入っている時などに
とてもいいアイディアが浮かんできたり、何かを思い出したりします。
英語では、物思いにふけっていることを「デイ・ドリーミング」、つまり
昼間に夢を見ているといいますが、夢同様すぐに書きとめておかないと
いつの間にかその時に思いついたことを忘れてしまうという事実も興味深いですね。

たとえ脳が一所懸命に回転していたとしても、傍から見てぼうっとした状態を
「心ここにあらず」とも申しますが、それでは心はどこにいるのでしょう。
脳や理性に対して心、気や魂が別に存在するのなら、ぼうっとした時に、
この心や気、そして魂は休息をとるのでしょうか。
もしかしたら、どこか素敵なところに出かけてしまうのかもしれませんね。
問題を引き起こすのも、希望を現実に変えるのも、共に同じ心の働きによるのだと
考えるとこれもまた興味深いことですね。

最近は心の病に苦しむ人の話題があとを絶ちません。
ぼうっとしたあとに「我に返る」、呆然としたあとに「気を取り戻す」などと
いいますが、心や気、魂という無形の存在にも、身体の一部分である脳と
同じように元気でいてもらわなければなりません。
あなたも秋の爽やかな青空を眺めながら、ぼうっと考える時間をつくり、
それが「良い時間の使い方ですよ~」と訴える心の声に耳を傾けるところから
ぜひ始めてみてくださいね。

私はそんなふうに夏休みの4日間をぼうっと過ごして、
ふと浮かび上がってきた言葉がありました。

「毎日ひとつ、心が躍ることをする。」

「私が82歳まで生きながらえた秘訣」とオノ・ヨーコさんが言われた言葉です。
自分自身、もしくは誰かの心が躍ることを三ヶ月間、毎日続ける。
すると、だんだん身体の調子がよくなってくるのがわかるそうです。
「そうやって、私は、82年かけて健康になったのだと思います。」と
おっしゃるのです。
あなたは心躍ることがありますか?
今ワクワク、ドキドキしていますか?

「生きながらえる」という言葉もオノ・ヨーコさんはよく使われます。
ここまで生きながらえたことが、素直に嬉しいと。
やりたい仕事がまだまだある。まだまだ知らないことがある。毎日毎日発見がある。
もっともっと生きたいと。

長生きしたい。幸せになりたい。カッコよくなりたい。健康でありたい。
それは人の根源的な願いであり、人として輝くことにほかなりません。
あなたは、その願望にきちんと向き合っているでしょうか?
あなたが輝くことが、周囲を、そして世界を変えていきます。
毎日ワクワク、ドキドキして一緒に生き続けましょう!

生きるって楽しいことですよ~。人生はいいものです。
まずそう信じること。そこからすべてが始まります。
あなたもどうぞいい人生を。心からそう願っています。

【2013.9.12 末金典子】

今年は特に暑さが厳しくて、猛暑の毎日が続いておりますが、
暑さに負けずにがんばってお仕事にお励みでしょうか。

さて、過日のことですが、麗王でもお馴染みの沖縄大学准教授・樋口先生と
お話しようと、沖縄大学に息子さんを通わせておられるお母さま達が麗王に
いらっしゃいました。
(お母さま達と言っても私よりもうんと若くお美しい方達ですが。)
お話をうかがってみると、樋口先生の授業を受けてから息子さん達が
イキイキとし始め、前向きな人生を送るようになり、
態度も激変してきたのが嬉しくて、いったいどんな授業を受けているのかしらと
興味が湧いたので、樋口先生の社会人向け「次世代金融講座」を
受講しておられるとのこと。旦那様も巻き込んで一緒に受けておられる方も
いらっしゃいます。

私も学生時代に教育学を少しばかり齧った人間なので、この方達のお話を
うかがいながら、改めて教育っていったいどういうことなのだろうと
考えました。
教育(education)という言葉の意味は、ラテン語のエド(ed)、つまり何々から
というのと、ドゥカール(ducar)、引き出すという二つの言葉からできています。
つまり、何々から引き出す、または内部にあるものを引き出すという意味です。
ということは、ちょっと霊感少女もどきの私が考えるに、
教育とは、その人がもうすでに知っていることを引き出す、
その人本来のものを引き出す、ということなのではないのでしょうか。
私達が輪廻転生を繰り返しているとすれば、私達はもうすでに何回も
学んできたはず。だから私達はそれぞれ、ものすごい知識と経験を
前世から得ているに違いありません。
きっと昔の人は、教育とは人々がすでに知っていることを見つけるのを
手伝うだけだと知っていたのではないでしょうか。
本当の私達はすべてのことをすでに知っているのかもしれません。
今改めて読んでいるプラトンの「国家論」の最終章にも出てきますが、
どうもプラトンやソクラテスもそう信じていたようなのです。

また、あるお母さまは、息子さんのことで悩んだ時期もあったけれど、
親御さんの介護をしておられる時にウツも経験され苦しまれたということでした。
女の子ばかりの姉妹の末っ子に生まれた彼女は、介護をしてあげているお母様から
「男の子を期待していたのに、あなたなんて産まなければよかった」というような
内容のひどい言葉を投げられたそうなのです。
私も父から言葉の暴力を受けた思いがあるので胸に応えました。
これまた、ちょっと霊感少女もどきの私が考えるに、
時には、血のつながった家族が本当の家族ではないことがあるように思うのです。
あなたの両親、兄弟姉妹、親類が、あなたを理解しないこともあります。
あなたに愛と思いやりを示さない場合もあるでしょう。
あなたを拒否し、残酷に扱うかもしれません。
あなたには非人間的に扱われても仕方ないような負い目はありません。
家族であろうと何であろうと、その人達の虐待的行動のターゲットに
なることによって借りを返すといったカルマ的な責任はあり得ません。
誰かを虐待し傷つけるのは、虐待する人の選択や自由意志による行為です。
虐待が当然だということは、絶対にありません。
でも、もっと成長すると、自分を本当に愛してくれる友人や知人に囲まれるように
なります。尊敬と敬意をもって愛され、大切にされることによって
得ることができる安心感を、彼らはあなたに与えてくれます。
こうした友人や知人は本当の家族となります。彼らはあなたと同じ霊的な価値観を
持っているかもしれず、あなた方はお互いに助け合いながら、良き方向へと
成長してゆくこともできます。
こうした人々は、あなたの魂の家族です。血のつながった家族から拒否されると、
魂の家族があなたを受け入れ、育て、そしてあなたにとってとても大切な家族と
なります。
血は水よりも濃いという、昔の格言があります。
これはつらい時に、たとえ友人知人があなたを見捨てても、血のつながった親類は
助けてくれるとあてにできる、という意味です。もし、本当に血は水よりも
濃いのであれば、魂は血よりも濃いのです。あなたのためにそこにいる魂の家族は
どんな時にも頼りにできるのです。

じゃあどうして実の親子は傷つけ合ったりするのでしょう?
実は、私達は両親を選んで生まれてくるそうです。
このお母さんの子供に生まれよう、この人をお父さんにしようと決め、
相手と約束して生まれてくるのだそうです。
「こんな家族の下に生れてきていやだった」と言う人が時々いますが、
これはとんでもないことで、私達はこの世界に生まれたくて、自分で親を選び、
彼らにお願いしてここへと生れて来ているのです。
もちろん親のほうにしても、お願いされるだけではなく、
「このような子供がほしい。ついてはこの人に子供として生れてきてもらおう」
と決めていたわけですから、お互いさまだとも言うことができます。
そんなこと信じられないと言う人もいるかもしれませんね。でも、最近の子供達が
このことをどんどん証明しています。
「僕はお母さんを選んで生れてきたんだ。とても優しそうな人だったから」
「お空にいたころ、どの人がいいかなぁと思ってお母さんになってくれる人を
探していたよ」
などとお話しする、小さな子供達がいっぱいいるのです。
(こういう事例の研究は社会学者・飯田史彦さんの一連の著書「生きがいの創造」
などに詳しく書かれています)
両親と子供の関係が悪いこともよくありますが、そんな親子でさえも、お互いに
選び、頼み合って親子となり、この世にやってきたのです。
子供は、自分に必要な試練を与えてくれることを期待して親を選ぶことも
あるからです。
反対に、子供のことで苦労して成長したいと願って、子供と約束してくる
お母さんやお父さんもいっぱいいます。
とくに今は、多くの人達が自分の本質や魂の世界に目覚めようとしている時代です。
親子関係から魂の目覚めと探求を始めようと、親と子供がお互いに必要な
学びのために約束し合って生まれてきています。
そう考えると、親子の関係がどうあれ、お互いに感謝し合うことが大切だと
思うことができるような気がしますよね。

人は誰でも、人とのつながりを求めているのです。つながりを確かめるために、
人はマイナスの行動にでも出てしまう生き物ですから。
生理的未成熟で生まれてくる私達人間という生き物は、
生まれてからしばらくの間、誰かの優しさをもらわないと生存できない存在
なのです。
だから、赤ちゃんは、存在をかけて必死で泣きます。
大人になった私達は、泣かないまでも、心で叫びます。
「誰か、私のこと、知っていますか!」と。
絆。つながり。
自分で生きていくことができる大人になった今でも、他者とのつながりは、
根源的に大切なものであることを本能の部分で知っているのです。

そんなこんなを週末の七夕の空を見上げながら考えました。
さぁ~、これからまたありがたくも麗王で知り合うことができたみなさんのお話を
じっくりうかがうのが楽しみになってきました!
次の連休は海の日。あなたの大切な人とぜひお出かけくださいね。

【2013.7.11 末金典子】