ほんのりと暖かくなってまいりましたね。春は近そうです。
お元気にしていらっしゃいますか?
週明けはおひな祭りですね。

この数年麗王では女性のお客さまが多くなってきていて、
みなさんのお話をうかがっていますと、今の女性は男性よりもよほど思考が
アグレッシブで、話題を突き詰めれば「これからいかに幸せになるか」と
いうことに行き着きます。
ただあまりにも「人生の目的は幸福になること」だと一種の呪縛のように
思い込みすぎている方も多く、こんなふうに考えてみてはどうでしょうということを
今回は書いてみたいと思います。

19世紀末から20世紀初めにかけて活躍したアメリカの高名な哲学者に、
ウィリアム・ジェームズという人がいます。
プラグマティズム(行動を重視する考え方)を世に広めた人で、夏目漱石にも
大きな影響を与えました。そんな彼の著書「宗教的経験の諸相」に「二度生まれ」
という概念が出てきます。
普段、人々は生きていることの不可思議さを日常の忙しさの中で忘却し、
あたりまえの光景として受け止めて日々を送っています。
でもその中の幾人かは、ある一線を超えることで
大地が決して強固ではないことを知り、その亀裂に飲み込まれ、大事な何かを
捨てさせられたり、恐怖を実感するようなのです。
これにより、その人は二度目の誕生を経験し、それはある意味で「本当の誕生」
であるとジェームズは書いています。
これは彼自身の個人的な体験に拠るところが大きいらしく、人生が破綻するほどの
精神的なダメージを受けた時期を乗り越えて再生した経験が反映されているようです。
彼はその経験によって、個人に起きるそういう変化の中に
新しい自分が誕生する瞬間があると考えるようになったのでしょう。

ジェームズが生きた20世紀初頭のアメリカでは、今で言う「ポジティブ・シンキング」
が大流行していました。クヨクヨしたって始まらない、前向きに生きることが
大事だと。
ジェームスの二度生まれは、それとはまったく異なるものです。
ポジティブ・シンキングのように苦痛や苦悩を安直にやりすごしたり、
違うものとすり替えたたり、他人に転嫁するのではなく、苦痛や苦悩を引き受ける
ということなのです。
もちろん不幸に見舞われれば、「どうして私がこんなつらい目にあわなければ
ならないんだろう」と誰もが思うでしょう。誰かを恨んだりするかもしれません。
それは当然のこと。でも、そこから始まって、それを受け入れることで
自分の中の価値観が大きく変わり、新しい自分に目覚めていく。
このようなあり方をジェームズは考えたのだと思います。

「二度生まれ」について、私自身が深く考えるようになったのは、
沖縄に住んだことがひとつのきっかけでした。
それまでの考え方や価値観やものの受け止め方など、
変えざるをえないことや捨てなければならないことが続きました。
また年齢的なこともありました。女性として結婚もせず子供も産まず
それでいいのだろうかといったことも含め、生き方を模索していた時で、
当初はいろんな思いに思い迷い打ちのめされました。
でも、そういう自分に向き合う中でやがて、別にいつも幸せでなくても
生きがいのある人生、意味のある人生はあるのではないかしら――そう思うように
なりました。

そもそも私達は、「人生の目的は幸福になること」だと一種の呪縛のように
思い込んでいます。でも、生きるということは、不可避的に苦痛や苦悩が
訪れるものです。
たとえ今は、お金にも仕事にも恵まれて、悩みひとつないような人でも、
やがて両親が亡くなる場面に直面したり、いつかは自分にも病や死が訪れます。
それは否応なしにやってくるもので避けることができません。

ですから「人生の目的は幸福になること」と考えると、幸せと不幸の間に何か分断を
感じがちですが、そうではありません。幸せもあるけれど、不幸もある、
それが人生なのです。健康もあれば、病気もある、生もあれば、死もあります。
それはどこかで地続きなのだから引き受けざるをえないということです。
そう考えると、いつか自分は不幸になるのではないだろうかという不安からも
開放されますよね。
苦痛や苦悩から逃げずに向き合ってみる、そんな「二度生まれ」の経験は、
きっとあなたの人生をより深く、豊かなものにしてくれるはずです。

まぁそんなことを書きながらも実は、あなたも私も、健康で、仕事があって、
ちゃんと衣食住ができていて、友達がいて……数え切れないほどうんと幸せな人生
なのですよね。人間ってなんて幸せという感覚に一番麻痺する動物なのでしょうか。

さあ、週明けの月曜日は桃のお節句。ひな祭り。
今では、女の子のお祭りと考えられることが多いようですが、もともとは
この日に川で手足を洗って心身の穢れを祓い、邪気を、身代わりの人形に移し
川や海に流し、家族全員の厄をはらい、夫婦円満を願うという
行事だったそうですから、子どもが男の子だけの家庭であっても、
家族の、周りのみんなの、幸せと健康を願ってぜひお祝いいたしましょう。
【2014.2.27 末金典子】

雨続きの寒い毎日が続いておりますが、体調などくずしておられませんでしょうか。
明後日は心ほんわかバレンタインデーですよ~。

私と年齢の違うあなたといえども、きっと私と同じお気持ちではないかと
思うのですが…、今の自分の年齢って、自分が感じている年齢の方が、
実際の年齢よりも、う~んと若いのではないでしょうか?
私なんて気持ちはまだまだ20代なのに、え~っ?いつの間にやらもう50代!?
って感じなのですよね~。となると、必然麗王にいらしてくださるお客さまは
私よりも年下という方がどんどん多くなってくる…というわけです。
そんな年齢の私でも「麗王に訪ねて行ってやろう」という心優しいみなさんの
ために、このバレンタインメールは何かプレゼントになるようなことを
書きたいなと愛情を込めてお贈りいたします。

よくうかがう悩みごとが
「自分の生き方に自身が持てない」「何となく毎日を生きている感じがする」
「成功やお金儲けはしたいけど、どうしたらいいのかわからない」
ということです。

私はいつもこうお話ししています。
「できるだけ自分に素直に、今やりたいと思うことを全部やっておいたほうが
いいですよ」って。
それは、体験から来る実感だから。
いろんなコンプレックスを抱えて、仕事のことで悩み、始終葛藤していて、
おまけに結婚もせずに自分はひとりで生きているんだと信じ込んでいたので、
他人への理解度もまだまだ浅かった失敗だらけの、今振り返ると赤っ恥の若い時代。
でもそういう失敗の数々もまた何かを「為した」ゆえなのです。
つまり、自分に多くのものをもたらしてくれたのは
「成功の反対は失敗ではなく、何もしないこと」だという事実でした。
傷ついたり悩んだりする中で、何となくいろんなことを学んで、気がついたら
自分にとって大切なものや使う言葉、選ぶべきものがだんだんわかってきた気が
します。

今感じるのは、結局は若いときに経験してきたことが貯金になっている
ということなのです。今の私は、その利息で生きているようなものです。
(もちろん今でも必死に経験貯金してはいるつもり…)
だから、若いうちに、自分に正直になって、一所懸命、経験を増やしたほうがいいと
思うんです。

それでも、モヤモヤを抱えて生きるのは苦しいものですよね。
ではこんなふうに考えてみてはどうでしょう?

自分のいいところ、理想的な部分ってありますよね。
反対に捨てたほうがいいと思うだめなところもありますね。
いいと思うところは他の皆と似たり寄ったりの価値観で、
実はだめなところのほうがユニークだったりすることが多いのです。
これこそが個性なんです。ここを捨てたり、否定したりすると、
一見いい人になるかもしれないけれど、いったい自分って何なんだ、
こんな自分を誰が愛するんだという気がしませんか。

欠点こそが、愛すべき個性になりうる。
それを私に教えてくれたのは、詩人・高村光太郎でした。
彼は「最低にして最高の道」という詩に、醜いものと美しいもの、最低と最高は、
常に自分の中に共存していると書き、私はその価値観に、大いに影響を受けました。
「道程」も「レモン哀歌」も大好きでしたが、この詩はそれまでの価値観が
ひっくり返ってしまうくらいの大きな衝撃でした。
「そうなんだ~、何も他人の価値観の最高を目指さなくても、こんな自分の中での
最高の道を行けばいいんだ」と、急に視界が開けた気持ちになったのを
今でも覚えています。そして今までずっとこの詩のようにありたいと
生きてきたように思います。

人生だって、良いこともあり、悪いこともあります。
人間だって同じことで、欠点だけを消そうと思うと、魅力はなくなってしまいます。
両方をありのままに調和させて生きていくことが、人間らしく生きる
ということであり、人生そのものなのでしょう。

誰もが最高を目指し、そういう自分でありたいと思っています。
でも、それで人間として魅力的かというと、決してそうなっていないんです。
むしろ弱いところ、だめなところにこそ自分らしさがあって、強みになるんだと、
認めてあげてほしいのです。
きれいじゃない自分も大切な自分。
弱さを否定せず、抱きしめて生きてくださいね。

ネガティブな部分を愛するようになれば、人は不思議と自分らしい顔つきに
なっていくものです。
また、他人を許し、受け容れることもできるようになります。
それこそが、とても素直な生き方なのではないでしょうか。
きっと、真っ暗闇から日向に出たような気持ちになることができると思いますよ~。

明後日はバレンタインデー。
あなたと感動を分かち合いながら最後に、「最低にして最高の道」をともに行こうよ、
と高村光太郎の詩をプレゼントさせていただきます。

「最低にして最高の道」
高村光太郎

もう止そう。
ちひさな利慾とちひさな不平と、
ちひさなぐちとちひさな怒りと、
さういふうるさいけちなものは、
ああ、きれいにもう止そう。
わたくし事のいざこざに
見にくい皺を縦によせて
この世を地獄に住むのは止そう。
こそこそと裏から裏へ
うす汚い企みをやるのは止そう。
この世の抜駆けはもう止そう。
さういふ事はともかく忘れて
みんなと一緒に大きく生きよう。
見えもかけ値もない裸のこころで
らくらくと、のびのびと、
あの空を仰いでわれらは生きよう。
泣くも笑うもみんなと一緒に
最低にして最高の道をゆかう。

* この詩は昭和21年の中等の教科書に1年間だけ掲載され、新制中学の教科書には
掲載されなかったそうです。
今もずっと掲載されていたなら、もしかしたら世の中の何かが変わっていたかも
しれませんね。

【2014.2.12 末金典子】

本土はこの冬は厳寒・大雪ということで、今をピークにインフルエンザが
流行っているようですが、なんと!沖縄は、その本土の4倍もの
インフルエンザ患者数とのこと!!

かくいう私も先週やられてしまいまいました!
先週の木曜日から麗王も休み、信頼するかかりつけ医の西平守樹先生の迅速な処置と
西平医院の優秀で心優しい看護師さん達のおかげで熱はすぐに下がったものの、
西平先生から「熱が下がっても人にうつさないように3日は外出厳禁」とのお達し。
咳がひどかったので喉が荒れて声が出にくかったこともあり、
大事をとって昨日の木曜日まで丸1週間お休みさせていただきました。
その間、麗王にいらしてくださった方々、予約やお見舞いのお電話やメールを
くださった方々、本当にすみませんでした。そしてありがとうございました。
西平先生と西平医院の方々も本当にありがとうございました。

お休みさせていただいた8日間の最初の3日間はうんうんと熱と咳にうなり苦しみ
その後はひたすら静養のためぐ~ぐ~寝たり、本を読んだり…。
お正月休みなどとは違って、みんなが働いている日なのに自分だけ働きもせずに
だらだら過ごしていると、日が経つにつれ、楽しいというよりはなんだか
「自分だけこんなことしていていいのだろうか?」なんて、
自分だけがどんどん取り残された気分になっていくのです。
やっぱり働くことって素晴らしいことなんだなって。
それでも、必ず治っていく病気なのですからどんなにありがたいことでしょう。
不治の病と闘っている方々は日々どんなに苦しんでおられることでしょう。
改めて病と人との関わりにいろいろな想いをめぐらしたことでした。
痛みを知ることって本当に大事なことですね。
さぁ、旧正月の本日よりまた気持ちをまっさらにして
元気よく営業させていただきます!
どうぞまた本日より麗王をよろしくお願いいたします。

あなたのほうはお元気にしていらっしゃるでしょうか。
1月も早や終わり、週が明けるともう節分ですね。
節分というのは、平安時代の宮中儀式「追儺(ついな)」が始まりといわれていて、
この日は立春の前日で文字通り季節を分ける境目。旧暦でいう大晦日なのです。
それで前年の悪疫邪気払いの行事としてこの「追儺」が行われていました。

で、なぜ「豆」を投げるのでしょう?
実は鬼の目「魔目」に豆を投げれば「魔滅」するからだとか。

また煎った豆でないといけないのはどうしてでしょう?
生の豆は芽が出てくるため、そこから鬼が芽を出という説や、
豆(魔目)を煎ることにより鬼を退治するという説もあるそうです。
つまり豆自体が鬼なので、外に投げ「鬼は外!」、あるいは食べてやっつけろ!
というわけですね。

それに、新年のエネルギーは一月ではなく二月の節分を越えたあたりに
動き始めるのだとか。つまり、節分を越えると、今年のエネルギーが非常に
はっきりしてきますので、今年の幸せに向かう目標や新しいトライは、
この頃にまっさらな気持ちで始めてみるのもいいかもしれません。
旧暦大晦日の節分の次の日は、新年元旦。
新年って、合理的に考えれば単に年の数字が一つ増えるだけのことなのですが、
それでも、新年を迎えると心身ともにリフレッシュされる気がします。
近年以前の人たちは、新しい年を迎えるときには、そのつど、この世界そのものが
一新されると考えていたのです。そのなかでは、もちろん、私達自身も新しくなる
というわけです。
一年の計は元旦にあり。1月1日に計を立てられなかった方は、今日の旧正月や
来週の節分の次の日がいいチャンス。去年の出来事やいろいろな思いを振っきって、
新しい年に踏み出しましょう。

私の今年の目標はといいますと…、麗王でもっともっとあなたの心に寄り添って
お話をうかがうことができるようになること。
昨年も静かな日はともかくとしてもバタバタしている日などは、
まだまだできていないなぁと日々反省の毎日でしたから。

昭和女子大学学長の坂東眞理子さん曰く、一番品格のある会話とは、
自分のことを話したくてたまらない人(ほとんどすべての人)の話を聞くこと、
なのだそうです。

確かに、コミュニケーションの一番の基礎は聞くことです。
会話の中で気の利いたことを言おうとか、笑いを取ろうとか、
ユーモアとセンスのよさを見せようとする必要はありません。
ひたすら相手のお話を肯定的な態度で聞くのです。

傾聴という言葉を知っておられますか?
それはただ聞き流す、尋ねるのではなく、
相手の話すことに耳も心も傾けて聞く、話し手を中心に置く聞き方です。
批判したり、評価するのではなく、相手の言い分を無心に聞く。
これは心理カウンセラーの重要な手法ですが、傾聴によって、
問題を抱えている話し手が、聞き手に受容されていると感じ、悩みを吐き出し、
新しい気づきが生まれるといわれます。
日常生活でも傾聴することによって相手に安心感、信頼感が生まれ、
よい人間関係ができるようです。

とはいっても本格的に傾聴することはなかなか難しい。
ともすれば相手の話をありのままに受け止めないで批評や批判の言葉が出たり、
とんちんかんな相槌を打ったり、気休めにしかならない激励をしてしまったり
ついしがちですね。
私なんて相手に向き合おうとするあまり、暑苦しく入り込みすぎたりしてしまう
なんてもうしょっちゅう!
専門家ではないのですから、百パーセント完全にできないにしても、
話すより聞くことを心がけるだけで、人間関係はずっとよくなるはずですよね。

今年こそ私も傾聴ができるように努めたいと思います。
麗王にいらしてくださるあなたのお話をしっかりうかがって、
そっと肩を押すことができるようになるためにも。

さぁ、週明けは節分。
複雑な課題の多い今日この頃、厄払いはしっかりとしたいものです。
あなたも大きな声で豆をまいて。
「鬼は~外、福は~内。」
私も邪気を払うべく、もっと元気になるべく豆を今までより少し多めに撒き、
しっかりと数え歳プラス1個のお豆さんをいただくことにいたします。
そして今年の恵方の東北東に向かって、幸運をおいしく呼び込む恵方巻き寿司を
ガブリ!とまるかぶりするぞ~!
あなたと私の今年一年の幸せを、今日を元気に生きていることの幸せを、
心から願って。

【2014.1.31 末金典子】