100年ほど前に、イギリスの思想家ジョン・ラスキンがこんな話を書いています。ある男が全財産の金貨を大きな袋につめて船に乗り込んだ。数日後、船は激しい嵐に襲われ、乗客は船を棄てて逃げろと警告された。男は金貨の袋を腰にくくりつけると、甲板に上がって海に飛び込んだが、たちまち海の底に沈んでしまった。そこでラスキンはこう問いかけます。「さて、海に沈んでいったとき、男は金を所有していたのだろうか、それとも金が男を所有していたのだろうか?」*(1)

資本主義の第四の幻想であり、恐らく資本主義社会の最大の問題が、富の蓄積が社会を豊かにするという「常識」です。本稿『次世代金融論』において、現代の資本主義社会の本質は何かというテーマで議論を続けていますが、これまでの議論から既に明らかなことは、現代の資本主義社会における最も根源的な価値観は、「お金があれば幸せになる」というものであり、この信念がわれわれの制度、経済、政治、教育、医療、福祉、家庭、人間関係のことごとくに投影され、現代社会が今のような姿になっているということでしょう。「お金があれば幸せ」 ・・・すなわち、「富の蓄積が社会を豊かにする」、ということですが・・・ という世界観が資本主義の本質であるならば、資本主義社会は、「お金が富である」、「富があれば幸せである」、という二つの大きな前提の上に成立していることになります。この両者が、資本主義の第四にして最大の幻想を構成している、というのが本稿の趣旨です。

お金という「富」
資本主義社会に生きる人の大半は、いかにしてお金を獲得しようか、そして、そのお金をいかに増やそうか、ということに人生の大半を費やしています。莫大なエネルギーを傾け、大きな犠牲をいとわず、人生を賭して少しでも多くを蓄積しようとしているお金とは、そもそもどのようなものなのでしょうか。お金には、本当にわれわれが考えているような価値が存在するのでしょうか。

お金*(2) は、かくもパワフルな存在であり、現代社会で暮らしている殆どの人々は、お金自体に大きな価値があると考えている訳ですが、お金は本来、価値の交換、維持、利殖(利子)機能を果たす「道具」に過ぎません。社会の構成員がその機能を信じることで、(多分辛うじて)成立してる恣意的な紙片またはデジタル情報であり、お金が表彰する「価値」とは全く別のものである筈です。ある人が商品の代わりにお金を受け取るのは、社会の(殆ど)全ての人がそのお金をお金として受け入れるという「予測」によるもので、その人が後で別の商品を手に入れたいときには、商品の売主がこのお金を受け取ると「思う」ためです。お金とは、価値があるから価値を持つのではなく、価値があると皆が思うために価値を持つという不思議な存在であり、「価値があると皆が思う」という、皆の「気持ち」がその実体です。このように書くと、17世紀前半オランダのチューリップ・バブル*(3) や、最近のサブプライム危機、あるいは椅子取りゲームやババ抜きのようにも聞こえるのですが、もともと価値のないものを価値の交換、維持、利殖手段にしているお金の根源的な構造は、その本質においてババ抜きと同じものです。実際、このお金というゲームには(ハイパー)インフレーションというババが存在し、社会の構成員は皆 ・・・もちろんそれが可能であれば、ですが・・・ このババをつかまないようにお金を次の人に先送りし続けなければ、いずれどこかの時点で自分の保有する「価値」を大きく毀損してしまうことになります。

資本主義がお金の蓄積を最大の目的としており、お金の実体が人の「気持ち」であるならば、お金に対する人々の「気持ち」が揺らぐことが、資本主義の最大の危機であり、それがインフレーションの本質かも知れません。私は、経済政策においてインフレーションが重大問題とされていることの理由が良く理解できずにずいぶん長い間悩んでいたのですが、ごく最近このような解釈に辿り着いて、ようやく納得できた気分です。この点については、東京大学の岩井克人先生が興味深いコメントをなされています:

一般的に、「恐慌」が資本主義の危機として捉えられていますが、実はそうではありません。「恐慌」とは、商品の売り手がいるのに買い手がいない状態で、市場にはモノをお金に換えたい人が多数存在し、お金への信頼は揺らぐどころか却って強固になります。資本主義にとっての本当の危機とはハイパーインフレーションです。ハイパーインフレーションは、買い手がいるのに誰もモノを売らない状態で、市場にはモノを欲しい人が多数存在するのに、誰もお金を受け取ってくれません。お金への信頼が失われ、お金を仲立ちとした商品経済が崩壊し、お金がお金としてして機能しなくなる、本当の資本主義の危機なのです*(4)

暴落する通貨
ハイパーインフレーションというと特別なことのようですが、それに近い現象は既に、しかもわれわれが一般に認識しているよりも頻繁に、そして現在も、生じています。例えば、昨年夏以降の原油価格の暴騰(と暴落)に伴って、日本でもガソリン小売価格が一時期180円/㍑前後まで上昇したのは記憶に新しいところです。この現象は一般に、「原油価格の暴騰」と認識されていますが、これは決済通貨であるドル(および、それにおおよそ連動する主要通貨)建ての原油価格が上昇したためです。しかし、例えば金の価格を基準にすると、原油価格は殆ど変化していないため、原油価格の暴騰というよりもドルの暴落(≒インフレーション)と捉えることもできるのです*(5)

より大きなスケールでは、金に対するドルの価値は100年前に比べて50分の1に下落しており、当時の1ドルは現在2セントの価値しかありません。もちろん、この価格には、100年の間に採掘された金が新たな供給に加わり、工業用その他の需要が増加したという、金自体の需給の変化による価値変動が含まれているとは思いますが、大掴みに捉えると、金の価格がドル建てで長期的に上昇し、その裏返しとしてドルの価値が暴落しているという事実に変わりはありません。このような事実が一般に認識されていないのは、1944年に成立したブレトン-ウッズ体制によってドルが世界の基軸通貨になって以来、60年以上、世界中の国際取引の決済がドル建てで行われているたためで、殆どの商品がドルで計測される世界においては、ドル自体の下落は自覚されにくい、ということだと思います。この「ドル暴落」の大半は、1971年8月15日のニクソンショック以降に生じたものですが、この日を境にドルが「金と同等の価値」から「紙片」へと変質したことに呼応した結果と考えることもできます。昨日まで金であったものが紙片になれば、その価値が50分の1に暴落したとしてもまだ少ないくらいです。その後1973年の第一次オイルショックでは、原油を中心とした世界中の天然資源が暴騰して世界的な大不況を引き起こす訳ですが、これも見方を変えれば、ニクソンショックによって「紙片」になったドルの暴落に伴って、本来価値のあるモノ(資源)が暴騰したように見えた、・・・オイルショックというよりも、ドルショックと呼ぶべき現象、と考える方が妥当に思えてきます。

日本の視点では、円の価値をドルとの相対観で捉えることがあまりに一般的です。1971年以前の1ドル360円から、1973年の変動相場制への移行を経て現在まで、円はドルに対して4倍(ドルは円に対して4分の1)になっているために、殆どの人は、高度成長期以降、長期的な円高が続いてきたと考えていますが、アメリカ経済に大きく依存してきた日本の円もまた、大きな流れではドルと連動しながら、(ドルよりも程度は少ないとは言え)下落し続けてきたという見方が可能であり、実際、円建て1グラムあたりの金価格は1970年の690円から、最近では3,000円まで上昇、すなわち円の長期に亘る下落を示しています*(6)

なぜ通貨は暴落するか
前述の通り、ドルは過去100年で50分の1に下落していますが、私は、この暴落は不兌換通貨(Fiat Money:フィアット・マネー)の構造的な問題ではないかと疑っています。米連邦準備銀行(「FRB」)が設立された1913年が、ドルの長期的な暴落のおおよその基点になっているのも偶然ではないと思いますし、ニクソンショックによってフィアット(不兌換)化した直後から、ドルが「大暴落」しているのも象徴的な現象といえそうです。

現在のお金である不兌換紙幣は、物理的には紙幣を印刷することで「無」から生じますが、社会・経済的なメカニズムの観点からは、誰かがお金を借りた瞬間に、信用創造がなされ、お金が市場に流通します。社会における最大の債務者は通常国家であるため、政府が国債を発行することで、大半のお金が生み出されることになります*(7)。ところで、近代の資本主義/民主主義国家においては、政治的に、できるだけ税金を少なく、できるだけ支出を多く、という強いバイアスが存在します。仮にそれが長期的には好ましくないことだとしても、選挙で勝つためには有効な手法だと考えられているからです。現在世界の「先進」諸国の債務が増加傾向にあり、財政赤字と国家の過剰債務の問題が多くの国で生じているのは、基本的にこのような単純な理由によるものではないかと思います。この過剰債務現象の裏側では、大量の信用創造が行われ、大量のお金が市場に放出されることになります。「公開市場操作」、「マネーサプライの増加」、などというと、なにやら科学的なことのようですが、要は、FRBが新たに紙幣を印刷して国債を買う(国の債務を肩代わりする)行為であり、供給量を増やして市場に流通している貨幣の価値を薄める行為、といったら語弊があるのでしょうか。

過剰債務のバイアスに持続性はありませんので、政府はいずれどこかの時点でこれらの債務を返済する必要が生じます。通常国家が債務の「清算」を行う方法は、①増税、②紙幣の印刷、③国有資産の売却(電電公社の民営化とNTT株式上場、専売公社民営化と日本たばこ株式上場、国有地売却など)、④債務の否認(1917年ロシア革命において、帝政ロシア時代の債務1,100億ドルをソヴィエト政府が否認した事例など)、⑤戦争などによる略奪、の5種類です。そのうち、①増税は政治的に最も不人気で、経済が成長しているときですら困難であり、実質的に機能することはないと思って差し支えないでしょう。そして、②紙幣の印刷について、論旨が循環するようですが、前述および注記*(7)の通り、お金は誰かの債務であり、お金が(「無」から)生まれるためには、誰かが債務(主として国家の債務)を増やさなければなりません。紙幣の印刷はすなわち、債務による債務の借り換えであり、継続的に債務残高を増加させ、市場に過剰流動性を生じ、実体経済を超えてマネー経済を膨張させ、自国通貨を下落させ、いずれどこかの時点でインフレーション、場合によってはハイパーインフレーションをもたらす可能性があります。そして通貨価値の下落を伴うインフレーションは、結果として、①経済活動の隅々に増税を行う行為、と同様の効果を持ちます。

・・・最近どこかで聞いた話に似ていないでしょうか?資本主義下の政治は、不兌換通貨の発行によって、政府の負債を膨張し、マネーサプライを増加させ、インフレ(すなわち通貨の暴落)を起こしやすい構造をもともと有しており、不兌換通貨の継続的な下落は、資本主義の構造そのものと云えるのではないでしょうか。

【2009.6.3 樋口耕太郎】

*(1) ピーター・バーンスタイン著『ゴールド:金と人間の文明史』、鈴木主税訳、2001年8月、日本経済新聞社のプロローグからの孫引きです。原典はイギリスの思想家ジョン・ラスキンによる100年以上前のエッセイによります。Ruskin, John, 1862. “Unto This Last”: Four Essays on the First Principles of Political Economy. London: Smith, Elder & Co.

*(2) 本稿の議論の重要な前提ですが、本稿で「お金」というときは、現代のお金、すなわち利息が一般に認められた社会における、中央銀行によって管理された、別の言葉では、中央銀行が無尽蔵に印刷可能な、変動為替相場制度下の不兌換紙幣を示します。お金と一口にいってもその時代、社会・経済的な背景、お金自体の構造によってその本質は大きく異なるため、お金の本質を議論する際の前提としてこのように定義する必要があります。例えば、(通貨を発行する)国家の概念はせいぜい2~300年。社会的にお金に利息を付す事が積極的に認知されるようになったのは1~200年(産業革命は農業革命に次ぐ人類の大革命とされていますが、私には、社会において金利が事業として認められたことが、資本主義の本質ではないかと思えます。『次世代金融論《その14》』 『次世代金融論《その15》』参照下さい。)。現在の形の中央銀行が登場するのは日本銀行が1882年、FRBが1913年のこと。ドルの金兌換が停止されたのは1971年8月15日のニクソンショック、円ドルの変動相場制が始まったのは1973年2月からに過ぎず、超・資本主義社会下における現在の、不兌換紙幣、変動相場制という「実験」は、正に人類史上初の試みであり、その期間も僅か40年間継続しているに過ぎません。

*(3) 有名なオランダのチューリップ・バブルについての記述は、150年間世界的な超ロング+ベストセラー、チャールズ・マッケイ著『狂気とバブル』、2004年6月、パンローリング社(1852年版の日本語訳です)、ジョン・ケネス・ガルブレイス著『新版・バブルの物語』、鈴木哲太郎訳、2008年12月、ダイヤモンド社、など。

*(4) 岩井克人著『貨幣論』、1993年、筑摩書房、および、2009年5月24日号日経ヴェリタスの記事によります(文脈は筆者がアレンジしました)。『貨幣論』が著されたのが1993年だということが驚きですが、このことからも金融・経済の本質についての岩井先生の洞察力の鋭さが分かります。

*(5) 米地質学研究所(American Geological Institute:「AGI」)のレポートを参照しています。AGIは1948年に設立され、およそ12万人を超える地質学者、地球物理学者が直接間接に参加する歴史のある団体です。また、超長期の金価格の推移(グラフ)は、オーストラリアの老舗投資顧問、AMPキャピタル・インベスターズのレポートなどで参照できます。

なお、世界の原油(特に中東産)はドルによって決済されるものが大半です(した)ので、どの国も原油が欲しければまず自国通貨をドルに換えなければならないという事情があります。このことがドルの通貨価値を相当かさ上げしていることは間違いありません。例えば、2003年3月、アメリカを主体とした有志連合がイラクに侵攻して勃発したイラク戦争は、サダム・フセインが大量破壊兵器を開発していたため、イラクがテロリストを支援していたため、あるいは、アメリカにとって原油資源の安定確保のため、などといわれることが多いのですが、私は、アメリカにとってのイラク戦争の最大の目的は「ドル防衛」ではなかったかと思っています。2000年11月より、フセインはイラク産原油の決済をドル建てからユーロ建てに変更しました。フセインの行為は、彼がどれほど意識していたかどうかは別にして、中東が産出する大量の原油がドルを支え、ひいてはアメリカ経済を支えるという、「ドルを機軸としたアメリカ資本主義」の基本構造を切り崩す、すなわち、アメリカの琴線に直接触れる行為です。

原油のドル決済は、アメリカにとっては、「ドルを印刷するだけで、原油を無尽蔵に手に入れる」ことができる、物凄いしくみです。更に、世界経済の生態系は、最大の国際商品である原油がドル建てであるがゆえに、世界中の財の取引もドル建てで決済され、ドルの需要が高まることで、ドルの基軸通貨が維持されている、というバランスになっているため、原油のドル決済は、「ドルを機軸としたアメリカ資本主義」の、要中の要となっています。仮に、ドルが原油の決済通貨でなくなれば(あるいはその比重が低下すれば)、ドルの暴落は避けられません。超資本主義が加速した後の、「ドルを機軸としたアメリカ資本主義」構造におけるアメリカのアキレス腱は、ドルの信頼性です。この信頼が大きく揺らぐと、世界からアメリカに集中していた資本が逆流し、米国内の長期金利が上昇し、景気に大ブレーキがかかり、不動産を含む金融資産価格は更に大暴落し、経済が大混乱に陥る可能性があります。当時のブッシュ政権の立場では、フセインを追放し、イラク原油のユーロ決済を阻止しなければ、アメリカはドル基軸通貨という莫大な利権を失うと同時に、アメリカ経済の基礎を崩壊させる可能性が高まるため、大量破壊兵器があろうとなかろうと、国際世論を敵に回そうと、その他のどんな理由があろうとなかろうと、この戦争(侵攻?)は不可避であったと私には思えます。イラクに大量破壊兵器が存在する、という情報は結局CIAの「誤報」だったとされ、アメリカ政府は自国諜報部門にその責任を負わせていますが、それすらも計算の上と考える方が現実味があるかもしれません。ブッシュ政権は、イラクを占領した後、イラク産原油の決済通貨を、早々にドル建てに改めました。

このようにして通貨と財の価値が織り成すバランスは、世界経済だけではなく、政治、軍事に大きく影響を与えており、かつ、表面的に議論の遡上に上らないため、生態系を観察、分析することで独自に理解せざるを得ない問題です。例えば、以上の観点で世界を見ると、イラク戦争をはじめとする多く、ひょっとしたら殆ど争いの原因は、(超資本主義)世界経済とお金の構造そのものにあると考えることが可能です。世界平和を願うのであれば、全く異なる角度から社会の生態系を理解しなおさなければならない、ということでもあると思います。

*(6) 田中貴金属工業株式会社のウェブサイトを参照しました。

*(7) 不兌換紙幣の本質とドルを管理するFRBについての記述は、前掲B・リエター著『マネー崩壊』に加えて、G. Edward Griffin, “The Creature from Jekyll Island” Fourth Edition, American Media, June 2002 が秀逸です。”The Creature…” は1994年7月の初版以来、2009年2月までに4回の改定と23回の増刷を重ねているベストセラーです。不可解なことに、本書の日本語翻訳版、エドワード・グリフィン著『マネーを生みだす怪物』、吉田利子訳、2005年10月、草思社、は今年になって全国のあらゆる書店から姿を消し、事実上の発禁処分を受けたのではないかと思えるほどで、裏を返せばそれ程真実が書かれているということなのかも知れません。現在アマゾンなどの中古取引で14,000円の値が付くなど、いわくつきの一冊です。英語を解される方は、著者グリフィン氏による、本書と同じテーマの講演がYouTubeにて視聴でき、こちらもお薦めです。

お金が生まれるメカニズムを簡単にまとめると: 国家の支出超過(前述の通り、政治は税金を少なく、支出を多くするバイアスがかかります) → 税収不足 → 例えば100万ドルの国債発行(要は、政府が紙に「借用証書」を印刷するだけです) → 国債を民間銀行などが購入(民間銀行は、購入した国債 ・・・すなわち、印刷しただけの「借用証書」・・・ を100万ドルの「資産」として帳簿に計上します。一方、政府は、国債の売却によって得た現金100万ドルで、橋を作ったり、公務員の給料を払ったり、各種支払を行います) → FRBの公開市場操作(典型的には、景気対策として、市場に「マネーを供給」するため、FRBが民間銀行などが保有する国債を買取り、その代金の支払を通じて、現金を市場に放出する行為です) → 代金はFRBが100万ドルの紙幣を印刷して充当(この時点で、先に政府が発行した100万ドルの国債をFRBが引受けたことになりますが、その代金の支払は印刷機によって「無」から生み出された紙幣によります) → 民間銀行の口座に国債の売却代金100万ドルがFRBから振り込まれ、民間銀行に預金が増える(マネタリーベースの増加) → 民間銀行は、新たに増えた100万ドルの預金に対して、900万ドルの新規の貸付が可能(昔、社会科で習った「乗数効果」です) → 900万ドルのお金(マネーサプライ)が更に、新たに、(無から)生まれる → 結果として、政府が100万ドルの借用証書を印刷することをきっかけに、何もないところから1,000万ドルの現金が生まれる。民間銀行は、もともと実体のない1,000万ドルのお金に金利を付して債務者に貸付け、債務者はこの実体のない1,000万ドルの債務に対する金利支払のために、多大な労働と、経済成長を強いられることになる。

因みに、FRBは毎年1~2兆ドル(100~200兆円)の紙幣を印刷し、ドルの6割はアメリカ国外で流通しています。最近ではユーロの欧州圏外流通量も急増しています。

前稿の議論をまとめます。お金に利子をつける習慣は、2,000年以上に亘って宗教的、道徳的、法律的に禁止されてきましたが、資本主義の誕生とおおよそ時を同じくして、「突然」社会的な常識として受け入れられるようになります。資本主義の経済活動において、モノやサービスの価格には、銀行などに支払う利子が含まれているため、お金を仲立ちとする世の中の取引という取引、事実上大半の消費活動に利息の支払が伴います。例えば、「消費税」や「金利」のように、自分が支払いを行っていることが明らかであるものに対しては、その存在を強く意識しますが、これだけ広範囲かつ高率の支払がなされていながら、モノや商品の価格に既に含まれている利子に対しては、大半の人はその事実すら知りません。この「利率」は恐らくモノやサービスの価格の40%程度に達しており、これを社会全体が負担し、「納付先」は上位数パーセントの資本家、ということになります。また、無限に複利を課していくことは、政治学や社会学以前の問題として、数学的に不可能であるため、この仕組みに持続性はありません。資本主義は、人類の歴史において初めて利子を社会的に認知したことで、これまでの「成長」を実現してきましたが、皮肉なことに、利子の存在によって自壊することが運命付けられているともいえるでしょう。この観点から、サブプライム問題に端を発した世界金融危機は必然であるという見方も可能です。

利子が社会にもたらすもの
この利子という怪物は、政治と国家運営、都市計画、事業と経営のあり方、市場のあり方、人間関係のあり方、生活のあり方、農業と食のあり方など、社会全体の想像を絶する範囲に対して、莫大かつ根源的な影響を与えていながら、そのメカニズムどころか、実体や、場合によってはその存在自体も殆ど理解されていない、という驚くべき存在です。利子というものが根源的に有する機能の第一は、強力な富の再分配機能です。お金が経済活動の中心にある「先進」社会において、当たり前のことですが、利子を支払う人と利子を受け取る人が存在します。前述のように、これだけの莫大な利子を社会全体が負担しているとして、実際に負担しているのは誰で、受け取っているのは誰かという、富の再分配に関する問題です。

1982年にドイツで行われた研究は、利子を媒介として、社会階層間で富がどのように移転するかを明らかにしています*(1)。この研究では、ドイツ全国民を収入の水準に応じて10グループ(それぞれ250万世帯)に分けました。この年ドイツの金利水準は5.5%でした。この1年間に10のグループ間でやり取りされた利子の総額は延べ2,700億ドイツマルクと測定されました。それぞれのグループが受け取った利子の額から支払った利子の額を差し引くと、グループ別の利子の収支が求められます。収入の低いグループから順に、-1.8 -3.4 -4.8 -5.0 -5.3 -5.9 -5.0 -4.7 +1.7 +34.2 (単位:10億マルク)でした。この調査によると、トップ10%のクラスが、残り90%の世帯から342億マルクを受け取っており、80%の下層階級から、10%の上層階級の人口へ、体系的な富の移動があったことがはっきり分かります。しかも、この富の移転は、利子が有する純粋な価値移転機能によるもので、個人の能力差、勤勉さの格差とは全く関係がありません*(2)

第二は、競争を促進する機能です。もともとお金というものは、了解のもとに作られた等価交換の手段で、この機能を仲立ちとすると、二者間の物々交換に限らず、大きな規模で第三者と様々な価値のやり取りができる、とても便利なものです。価値の交換は基本的に等価交換が原則であるため、例えば10人が10の価値の商品を保有している社会において、10のお金が流通して価値の交換が行われると、この10人の社会における1年後の社会的な価値の合計はやはり10です。ところがある日、この社会に「資本主義」という仕組みが導入されて、お金に利子が付されることになりました。これによって、1年後には10に対して例えば1の金利を支払わなければならなくなり、結果として9の価値を10人で分けざるを得なくなります。この「椅子取りゲーム」に敗れた一人は、恐らく自宅を差し押さえられたりするのでしょう。今まではお互いに必要なものをお互いの出来る範囲で与え合っていた10人の社会に、競争原理が導入された瞬間です。年末には自宅を失い、家族を路頭に迷わせるかもしれないという怖れが、10人全員を激しい競争に駆り立て、人々は猛然と働き始めますが、年末には必ず誰かが破綻することに変わりはありません。ベルナルド・リエターの前掲書(69p)では次のように表現されています。

『銀行があなたに10万ドルの住宅ローンを貸すとき、銀行は元金をあなたの口座に振り込むが、銀行は今後20年前後のうちに合計20万ドルが帰ってくることを同時に期待している。もし、その額を返せなければ、あなたは家を失うことになるだろう。あなたの銀行は利子をつくらない。銀行はただ、あなたに元金を持たせ、その上乗せの10万ドルを誰か他人から獲得するための戦いに送り込むだけなのだ。他の銀行も同じことをしており、このシステムであなたが10万ドルを獲得するためには、誰かが確実に破産するようになっている。簡単に言えば、あなたが利子を払うとき、他の誰かの元金を使っていることになる。言い換えれば、お金を求めて人々は競争し、失敗者は破産によって罰を受ける仕掛けである。中央銀行の金利決定にはいつも注目が集まるが、その理由の一つはここにある。つまり、金利を上げるという行為は、近い将来、破産の数が増えるということを意味する。(中略)要約すると、私たちはただ交換をスムーズに行うための手段を得たいだけなのに、現在の金融システムは私たちに借金を負わせ、お互いに競争させることになっている。こうしてみると、この世界が多くの人にとって「厳しい世の中」であることも説明がつく。』

第三は、社会を終わりなき経済成長に駆り立てる機能です。前述の10人の社会は、1年間に何も新たな価値が生産されない、という単純な前提によりますが、現実には人口が増え、商品が生産され、生産のための設備に投資がなされ、お金の量が増える、などの「経済成長」が生じ、その成長で得た一部が利子の支払に充てられます。逆にいえば、経済成長を実現しなければ、椅子取りゲームに負けた人から順に一人ずつ破綻することになります。ところがこの場合、10の経済価値が存在していた利子導入前(資本主義経済の前)の社会と、経済成長によって11の経済価値が生まれた利子導入後(資本主義経済)の社会では、すなわち経済成長を遂げた前と後では、金利1の支払を差し引くと、住人の生活水準は全く変わりません。つまり、この社会の住人が来年も同じ水準の生活を送りたければ、少なくとも利子の分だけ経済成長をしなければならず、利子は「現在の生活水準を維持するために、最低限これだけの成長が必要である」という「必要成長量」を決定しているということになります。私たちの常識では、経済成長は資本主義社会の維持に不可欠であり、成長しない社会は良くて衰退、場合によっては崩壊すると考えられていますが、それはそもそも社会の成立要件などではなく、利子の存在が、永遠に続く経済成長を社会に強いているに過ぎないのかも知れません。

我々は、毎年毎年飽くなき経済成長を実現するために、再生不能な大量の資源を消費し、自然と環境を破壊し、まだ利用できる物資やまだ食べられる食品を大量に廃棄し、自分を奮い立たせて激しい競争に立ち向かい、過密な都市を形成し、国家の屋台骨である中産階級を崩壊させ、人格を育てる教育の場を職業訓練校に変え、過剰な労働に耐え、健康よりもキャリアを優先し、農業を工業・化学化し、場合によっては敢えて戦争を起こし、社会を「発展」させてきましたが、この全ては利子支払のためだったのかも知れないのです。競争を加速し、経済成長に駆り立て、富の集中を生む、という利子のメカニズムは、人々をお互いに敵対させる根本的な仕組みでもあり、また、現在の資本主義はインフレと人口増なしには成り立たないとされていますが、このように解釈すると、現代の社会における様々な現象がうまく説明できるのではないかと思います。

バブルのメカニズム
バブルは金融経済が実体経済を大きく上回ったときに生じる現象だと考えると、以上のような利子のメカニズムを前提としたとき、実体経済よりも数段のスピードで金融経済が成長し、やがてバブルが生じることは、資本主義と金銭経済の構造的必然といえるでしょう。2007年に表面化したサブプライム問題を機に、長くて深い世界金融危機と、大恐慌にも匹敵しようかという世界的な経済の停滞が生じていますが、資本主義社会に内包されている強力な金利のメカニズムがサブプライム・バブルとして顕在化するプロセスは、資本主義の第四の幻想、かつ、恐らく最大の欠陥、「富の蓄積が社会を豊かにする、という常識」が深く関連しているのです。

【2009.3.19 樋口耕太郎】

*(1) 前掲マルグリット・ケネディ『金利ともインフレとも無縁な貨幣』小森和男訳、自由経済研究、1996年11月(第8)号、ぱる出版。この調査は、同じく前掲ベルナルド・リエター著『マネー崩壊』小林一紀・福元初男訳、2000年9月、日本経済評論社、71p~73pにおいても参照さています。少なくとも日本語翻訳版においては前提条件など、調査の詳細に関する記述を見つけることが出来ませんでした。もちろん、ケネディ博士が参照している調査が示唆する現象は根源的なものであり、その重要度は些かも低下するものではありませんが、利子のもつ富の再分配機能に関する分析は、そのテーマがあまりに重要なものであるため、複数年度や異なる地域、異なる金利水準における実証調査がなされることが好ましいとは思います。

*(2) 興味深いことに、累進課税や社会福祉など、先進諸国で所得の再分配の仕組みが強化されたタイミングは、資本主義が浸透し、お金に利子を付すことが社会的に認知されたタイミングとおおよそ重なっているようです。仮に、お金に利子がつかない社会が存在したとして、このような社会においては、累進課税や社会保障などの社会的な再分配機能のコストが極小で済むであろうことは容易に想像がつきます。最近の日本の事例では、悪名高き2兆円の「定額給付金」の裏付けとなる平成20年度第2次補正予算で、支給に必要な経費として825億円が計上されて話題になりました(2009年1月26日の各紙によると、その内訳は銀行に支払う振込手数料が150億円、自治体職員の残業代が233億円など)。政治的に富の再分配を行うことは、不正や既得権益の温床になるということもそうですが、それ以上に社会的なコストが非常に大きいという重大な欠点があります。すなわち、利子の存在が社会を歪めているとして、国家はそれを是正するために更に莫大な費用を必要とし、社会を二重に非効率なものにしています。

強力な利子のメカニズムが内包されている資本主義社会の中でも、アメリカのような金融主導型社会が、格差の激しい社会の代表格であることは偶然ではないと思います。よく批判されるアメリカの社会格差の水準は、2001年の時点でトップ5%の階層が全ての富の60%、トップ20%が84.4%の富を所有しています。それから約20年前の1983年の時点では、トップ20%の持分は全体の81.3%でしたので、この間に3.1%増加したことになります。この3.1%は、次の40%の階層から2.6%、ボトム40%の階層から0.6%ずつを吸い上げたものです(小林由美著『超・格差社会アメリカの真実』2006年9月、日経BP社、51p~56p)。また、2002年から2006年のデータでは、99%のアメリカ人の収入は年1%(インフレ調整後)で成長していますが、トップ1%は実に年間11%の成長を遂げ、この期間に生み出された富の約75%がこの1%の層に配分されているといいます。Between 2002 and 2006 the incomes of 99% rose by an average of 1% a year in real terms, while those of the top 1% rose by 11% a year; three-quarters of the economic gains during Mr Bush’s presidency went to that top 1%.(”Unhappy America” July 24, 2008, The Economist, print edition. 翻訳筆者)。

前稿の論旨をまとめます。現代社会では、経済成長がなければ資本主義が成立しないと信じられています。経済成長は、人口増加と一人当たり消費の増大によって生じますので、経済が成長し、資本主義が維持されるためには、人々が消費を拡大し続けなければなりません。人々が自分の持ち物に不足を感じていなければ、活発な消費活動が生じないため、我々の社会は、人々が常に不満足でなければ経済成長を持続することができないという構造になっているのです。つまり、経済成長は幸福を作り出すものではなく*(1)、不幸によって維持され、また、このような資本主義を維持しよう思えば、人々を常に不満足なままにし続けなくてはなりません。経済成長が内包する最大の矛盾はこの点にあるのですが、資本主義の第三の幻想、「経済成長は社会を豊かにする」が、この矛盾を包み隠す役割を効果的に果たしています。

お金はなぜ増える?
さて、経済成長にはもうひとつ大きな、恐らく前稿の議論よりも数段根源的な大問題があります。それは、実体経済の成長と対比される、マネー経済の成長です。米マッキンゼー・グローバル・インスティチュートの報告書*(2) によると、1980年から2006年までのおよそ25年間、実物経済がおよそ5倍に拡大する間に、金融経済は14倍に膨れ上がっています。1980年から2006年の成長率は、世界GDPが年率6.2%に対して、金融資産は年率10.7%*(3) の勢いです。

しかし、実体経済の3倍近くのペースで拡大した金融資産とは、そしてお金とは、そもそも何でしょうか?金融資産はなぜ、どのようなメカニズムで増えるのでしょうか?会計では事業(借方)とお金(貸方)がバランスするのに、マクロ経済では、なぜお金が実体経済の何倍もの規模になり得るのでしょう?「お金」の本質を問うということは、バブルがなぜ生じるのか?社会になぜ富と権力の集中が生じるのか?そして、なぜ社会が現在のような姿なのか?という社会の根源を問うことでもあります。・・・そう考え始めると、この半年間あまり、「お金とは何だ?」という問いが、私の頭から離れなくなってしまいました。関連と思われる書籍を買い漁り、様々な論文・資料を読み、この問いを昼夜考え続けます。そして、当たり前のように聞こえるのですが、「お金には利子が付いている」という、本質のひとつに辿りついた気がしています。お金と利子の問題は、経済学の範囲を超えて、歴史、宗教、社会学、文化人類学、数学、やや意外なところでは、労働とはなにか、というテーマとも不可分に関わっており、見かけよりも相当深いということがよく分かりました。ちょっとした世界旅行の気分です。

利子という怪物
『ネバー・エンディング・ストーリー』『モモ』などの代表作で知られるドイツの童話作家、ミヒャエル・エンデは、お金の本質に関する研究にも熱心でした。彼はお金がお金を生む金利(複利)のパワーについて、次のように説明しています*(4)

『ちょっと意表をついたたとえ話をさせてください。ある人、ヨセフでもいいでしょうが、西暦元年に1マルクを預金したとして、それを年5%の複利で計算すると、その人は現在、太陽と同じ大きさの金塊を4個所有することになります(筆者注:太陽は地球の33万倍の質量を有しています)。一方、別の人が西暦元年から毎日8時間働き続けてきたとしましょう。彼の財産はどのくらいになるのでしょうか。驚いたことにわずか1.5mの金の延べ棒一本に過ぎません。この大きな差額の勘定書は、いったい誰が払っているのでしょうか。2,000年という時間は少々おとぎ話めくかもしれませんが、今お話したたとえは、20年という短い期間をとっても同じ結果が生じるわけで、本当に大問題だと思うのです。』

実際にエクセルで計算して見ると、西暦元年に100円を預金して、年5%、年4%の複利で運用したとき、2009年のお正月の預金残高はそれぞれ、

【5%】    336,452,092,272,630,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000円
【4%】          1,534,305,962,100,480,000,000,000,000,000,000,000円

になります。その膨大な額もさることながら、長い期間では僅か1%の金利の違いがこれほど、・・・このケースで、両者の預金残高の差は約22万倍です・・・のインパクトを生じるという事実に驚かされます。因みに、世界最大の銀行は日本のゆうちょ銀行ですが、総資産は「僅か」

230,000,000,000,000円

230兆円に過ぎませんので、この膨大な預金を受け入れることができる銀行は、地球上において到底存在し得ませんし、人類がどれほどの経済成長を実現したとしても、この利息を賄うことはできません。この単純な算数が明らかにすることは、私たちが依って立つ資本主義社会の経済システムが、いかに荒唐無稽なものであるか、そして、我々が当たり前と思っている、「利子」の存在自体が、社会においていかに持続性を持たないか、という重大な事実です。

また、時給1,000円で年間3,000時間働くと年収は300万円ですが、西暦元年から2008年間のこの労働者の合計賃金は、

6,024,000,000円

約60億円、5%でお金を運用した「資本家」の預金額との差は、実に、55,851,940,948,311,800,000,000,000,000,000,000倍であり、これは労働者と資本家の所得の差でもあります。特に1990年代以降、世界の先進国では社会格差の問題が表面化していますが、お金の原理で社会を構築する資本主義が強烈な格差を生み出すのは、このような、利子のメカニズムに付随する構造的な問題と考えるのが自然ではないでしょうか。世界の主要な宗教が長い間、お金に利子をつけることを禁じてきたのは、恐らく金利のこのような性質を洞察していたからではないかと思いますが、スピリチュアリティに基づくインスピレーションの鋭さには時々驚かされます。

超資本主義の進行に伴って、金融が経済を主導する「アメリカ型金融社会モデル」が世界に広まり、社会格差が拡大している現象は、このようなメカニズムによってうまく説明できるような気がします。・・・社会格差の問題は、一般的に批判されているようなまずい政治の舵取りの結果、という要素も確かにあるかも知れませんが、この仮説を前提とすると、政治批判・論争も対症療法についての議論に過ぎません。単純に政治を批判しすぎるのも、政治に期待しすぎるのも、本質的な病理の特定と治癒を遅らせることになるのではないかと思います。現在の日本で言えば、政権が変わっても変わらなくても、対症療法の処方箋が変わるだけではないかと懸念します。

利子の「常識」を再考する
お金が利子を生むことは、現代金融においては常識以前の常識ですが、実はその「常識」が社会の「常識」になってから、せいぜい100年+くらいの歴史しかありません。人類の歴史において、現代のような利子、それも複利による経済が堂々かつ大規模に行われるようになったのは比較的最近のことです。キリスト教、イスラム教、仏教の世界三大宗教では、1,000~2,000年以上お金に利子をつけることを禁じてきましたし、イスラム金融においては、現在においても利子が禁止されています*(5)。シェイクスピア(1564-1616)の『ヴェニスの商人』に典型的に描かれているように、お金を貸して利子を取る金貸し業は、社会から強い非難を受ける卑しい行為であり、不労所得は、人の道義に反すると考えられていました。

前述の通り、このような宗教的・社会的戒律には、その道徳的な理由に加えて、社会とお金の構造問題に対する警鐘が含まれていたと考えるべきかも知れません。複利のメカニズムによって、等比級数的に増加するお金という存在は、ウィルスの増殖パターンにも似て、有限な自然界、あるいは実体経済と共存することがそもそも不可能であるように見えます。1999年に大ヒットした映画『マトリックス』は、知能を持ったコンピュータープログラムが人類を支配するというストーリーですが、コンピュータープログラムの代理人(エージェント)が、人間(モーフィアス)に対して印象的な台詞を吐きます(翻訳筆者)。

I’d like to share a revelation that I’ve had during my time here.  It came to me when I tried to classify your species and I realized that you’re not actually mammals.  Every mammal on this planet instinctively develops a natural equilibrium with the surrounding environment, but you humans do not.  You move to an area and you maultiply until every natural resource is consumed, and the only way you can survive is to spread to another area.

There is another organizm on this planet that follows the same pattern.  Do you know what it is?  A virus.  Human beings are a disease, a cancer of this planet.  You are a plague, and we are the cure.

君たちの種を分類しようとして感じたのだが、君たちはどうやら哺乳類ではない。地球上の全ての哺乳類は、環境とバランスするための本能を進化させているが、君たち人間は違う。ある場所に住みつくと、そこにある資源を食いつぶすまで増殖に増殖を重ね、種が生存を続けるためには、次の場所に拡散する他はない。

地球上には同様のパターンを持つ生物がある。ウィルスだ。人間とは伝染する病、君たちはこの惑星の癌なのだ。そして、我々が治療薬だ。

「エージェント」が指摘する人類の姿が、資本主義社会における我々の生息パターンだという事実は否定しがたいのですが、我々が知らず知らずのうちに隷属しているお金と、お金の持つ金利メカニズムが、そのパターンを規定しているとは考えられないでしょうか。

利子について、再考すべき第二の「常識」は、利子の「支払い」に関するものです。殆どの人は、お金を借りると利息が生じる、と考えています。しかし、商品やサービスの提供者は、例えば機械や建物を調達するために銀行からお金を借りているので、モノの価格には、銀行への支払いが既に含まれています。・・・農家は耕運機や農薬購入のために農協からお金を借り、収穫した小麦を農協へ売る際に金利費用を小麦の売却価格に上乗せします。農協は一般販管費に加 えて、借入金利や支払配当などの資本コストを上乗せしてパン屋さんに卸します。パン屋さんの店舗やパン焼き機器の購入代金は地元の信用組合からローンを組んでいますので、パンの売上でこのローンに対する金利を賄う必要があります。こうして消費者が購入する「クロワッサン」には、相当額の金利が含まれます。資本主義社会のメカニズムにおいて、世の中の取引という取引、事実上全ての消費活動に利息の支払が伴います。世の中では、消費税率を引き上げるべきかどうかで議論がなされていますが、我々は既に、資本主義社会に広範囲に存在しながら、目に見えない、利息という「消費税」を、自分たちが気が付かないうちに、日々大量に納税しているのです。後述しますが、この「税率」は恐らく価格の40%程度に相当し、納付先は上位数%の「資本家」、ということになります。

環境建築と都市計画の専門家で、ドイツのハノーバー大学でも教鞭をとったマルグリット・ケネディ博士は、彼女の論文*(6) の中で、このような「目に見えない」金利費用を、我々がどれ程負担しているかについての調査を紹介しています。1981年・1989年ドイツのアーヘン市における、一般的な商品・サービス価格に含まれる利子支払分の比率は、ゴミ回収 12%、上水(飲料水) 38%、下水 47%、公共住宅家賃 77%、です。労働集約的なゴミ回収における比率が低く、資本集約的なインフラを必要をする商品やサービスについて、比率が上昇することが分かります。

別の身近な例は住宅ローンでしょう。金利の水準にもよりますが、例えば5,000万円のマンションを購入するために、銀行から4,000万円の住宅ローンを借りたとすると、30年間の総返済額は金利元本を合わせて8,000万円近い額になります(平均金利が5%前後の場合です)。つまり、この不動産オーナーは、1,000万円の頭金を合わせて実質的に9,000万円の買い物をしたことになりますが、そのうちの約4,000万円、実に購入額の44%が金利の支払に充てられることになります。そして、このオーナーが、この物件を賃貸に出すとすると、これらの費用は全て賃料に転嫁されることになりますので、テナントは家賃という形で金利を支払わされています。

サラ金からお金を借りる生活をはじめると、金利の支払額が雪だるま式に(複利で)増加し、元本を返すどころか金利の支払だけのために働かざるを得なくなり、やがて所得の大半が金利の支払に充てられるようになります。誰もがおぞましいと思う借金漬けの人生ですが、しかし、現実には、サラ金からお金を借りていようと、いまいと、生活における支払の大半が既に金利費用であり、その事実に気が付いているか否かに関わらず、資本主義社会では誰もが借金返済のために大半の労働を強いられているのです。このようにして、資本家が受け取る金利、・・・エンデが問う、「太陽4個分の金塊と、1.5mの金の延べ棒の、差額の勘定書」・・・は、社会全体が負担しています。

反対に考えると、仮に、この世の中から金利というものが消滅すれば、大半の人の可処分所得は倍増する可能性があります。マルクス主義の社会主義運動は、利子や賃料など余剰価値(不労所得)の廃棄を目標としていましたが、その思想の根拠はこのようなところにあったのではないでしょうか。また、マルクスが予言した、「資本主義の崩壊」は、このようなお金(資本)と金利の根源的な性質を洞察していたのかも知れません。

利子の「常識」を再考する、議論は次稿に続きます。

【2009.2.2 樋口耕太郎】

*(1) この議論において、経済成長を無条件に問題視しているわけではありませんし、成長を止めろと主張しているわけでもありません。ある程度裕福になった社会において、追加的な経済成長が人々の幸福に大きく寄与しないのは事実といって差し支えないと思いますが、それでも多くの人々は物質的な豊かさを得ることで(幸福かどうかはともかく)、一定の満足を得ています。また、世界の底辺の50数カ国に集中している貧困を解決するために、恐らくもっとも有効な手段は経済成長です。反対に、経済が急速にマイナス成長へ向かうと、1989年以降の旧ソ連や、紛争が生じているアフリカ諸国のように、健康や平均寿命の水準が激しく低下するという傾向もあります(前掲、ダイアン・コイル著『ソウルフルな経済学』などを参照しています)。

*(2) Mapping Global Capital Markets, Fourth Annual Report, January 2008, McKinsey Global Institute. 1980年の全世界の名目国内総生産(GDP)と金融資産は、それぞれ10.1兆ドル、12兆ドル(比率は 1 : 1.1)とほぼ均衡していました。ところが、両者は1990年以降目立って乖離し始め、2000年には31.7兆ドルに対して94兆ドル(1 : 2.9)、2006年には48.3兆ドルに対して167兆ドル(1 : 3.5)と急速に拡大しています。

*(3) 年率10%を超えるスピードで世界の金融資産が増加し続けると単純に仮定すると、現在167兆ドルの世界金融資産は、30年後には実にその21倍、3,525兆ドルにまで拡大する計算になります。現在日本の個人金融資産の総額が1,500兆円といわれている中、30年後に、例えばゆうちょ銀行の総資産が現在の21倍、すなわち4,830兆円になるなどということは、ハイパー・インフレーションでも起こらない限り不可能でしょう。特に過去約30年間の金融資産の成長は、持続性を失っており、国際金融危機の発生は時間の問題だったといえるでしょう。

*(4) 坂本龍一、河邑厚徳編著『エンデの警鐘』、2002年4月、NHK出版。お金について考え続けたミヒャエル・エンデの思考の道筋を辿りながら、お金の本質を根源から問う、という構成のNHK番組『エンデの遺言』(1999年5月)は大きな話題になりました。同名の書籍が2000年2月に出版され、その後も現在に至るまで、日本における地域通貨活動などに多大な影響を与えています。本書はその続編です。ミヒャエル・エンデは童話作家として知られていますが、そのモチーフは深い社会的洞察に基づくもので、とくに『モモ』に登場する「時間泥棒」、「時間貯蓄銀行」は、お金がお金を生む金利の本質を、童話という形で表現した秀逸なアイディアです。

もっとも、本書はテレビ番組を基礎として構成されていますし、エンデ自身も経済・社会学的な強い裏づけをもつ研究者ではありません。本稿のエンデのこのコメントは、彼自身マルグリット・ケネディの論文を引用したものです。お金と社会についての書籍としては、ベルナルド・リエター著『マネー崩壊』小林一紀・福元初男訳、2000年9月、日本経済評論社、が秀逸です。

*(5) アリストテレスはその著書『政治学』の中で、「貨幣が貨幣を生むことは自然に反している」 と述べています。旧約聖書においても「あなたのところにいる貧しい者に金を貸すなら(中略)利息を取ってはならない」 (出エジプト記22:25)、あるいは「金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない」(申命記23:19)と記されています。しかしながら、旧約聖書は貧者と同胞への利子を禁じているだけという解釈や、イタリア・ルネサンス時代の大スポンサー、メディチ家が大銀行家であったり、教皇庁が別名目で実質的な金利を認めるなどの事例が存在し、また、イスラム教の教義に基づいて運営される銀行は、実際には「投資」による「利潤」は許されるという解釈に立ち、事業を成立させているなど、利子を取る金融がいつの時代にも存在したことは事実のようです。

*(6) マルグリット・ケネディ『金利ともインフレとも無縁な貨幣』小森和男訳、自由経済研究、1996年11月(第8)号、ぱる出版。

資本主義の第三の幻想は、「経済成長が社会を豊かにする」、という常識の嘘です。経済学は前提条件の多い学問とされているそうですが、それらの前提条件については、重要なものほど単に「所与」とされているような気がします。「経済成長の有益性」はその典型といえるでしょう。オーストラリアの経済学者クライブ・ハミルトンは、彼の著書『経済成長神話からの脱却』*(1) で、次のように述べています。

経済成長の有益性は自明のこととされているので、経済学の教科書でそれのどこが有益なのか調べようとしても簡単にはいかない。どこでもいいから大学の教科書を開いてみれば分かるが、経済学の定義としていきなり、わずかな資源で無限の欲求に対してできるだけ大きな満足をもたらすにはどうすればいいかを研究するものだと書いてある。ここでは「欲求」は消費によって満たされるものだとされ、教科書の前半はもっぱら、消費者が自身の「幸福」を最大化しようとする行動の分析に当てられる。本来は人間だったものがいつの間にか「消費者」にされ、人間の欲求は商品によって定義されてしまっている。これに続けて、人間を最も幸せにできる唯一の方法は、より多くの商品を提供することだと書いてある筈だ。いいかえれば、目的は経済成長だということになる。教科書の後半はマクロ経済の話だろう。こちらの目的は要するに、政府がどのように経済を管理すれば、やがて成長率を最大にできるかを理解することにある。

経済成長フェティシズム
「経済成長の有益性」を所与として、いかにして経済成長を実現するか、に関する経済学的研究が山のように存在し、社会的にも政治的にも経済成長が最重要視されています。現代社会において、所得の向上が幸福をもたらし、経済成長がよりよい社会を作ることは「自明」であり、GDP*(2) が繁栄の指標として議論の余地なく受け入れられています。GDPの成長が好調であれば、与党は選挙で大勝して政治家は胸を張り、逆に成長率が鈍化すると、野党を含め、ありとあらゆるメディアや評論家が、政府はいかに無能で社会に多大な被害を及ぼしているかと激しく攻撃します。政府の経済政策やマニフェストは、それが経済成長を達成するか、というほぼ一点で評価されるといって差し支えないくらいです。政治的な議論においても、世の中の多く問題は経済成長によって万能に解決されると考えられているかのようです。失業者対策、ホームレス問題、外国人雇用、若年雇用不足、公共施設の予算不足、税収不足、収入格差の拡大、少子高齢化、高齢者の福祉、環境問題、食料自給率の低下、農業の衰退・・・。延々と続く社会問題のリストに対して、過去何十年もの間、政治家や経済学者やマスメディアや事業家の回答は常に、「経済成長でみんなが豊かになれる」というものでした。そして、「経済成長」とは単にGDPの成長を指すことが一般的ですので、これらの問題がGDPの成長によって、完全に解決せずとも向上すると考えられています。

経済学では100年以上、経済成長が社会を豊かにし、所得の増加が消費を増やし、人間の幸福は財の消費量の増加関数だと仮定してきました。しかしながら、この命題は一度もシステマティックに実証されたことはないそうです*(3)。所得が上がることで幸福度が大きくなるのであれば、①豊かな国の国民は、貧しい国の国民よりも幸福である、②同じ国のなかでは、お金持ちの方が貧乏人よりも幸福である、③人はお金持ちになるほど幸福になる、という関係が成り立つ筈なのですが、既に存在する大量の調査・研究による「状況証拠」は、それらをことごとく否定しています。前掲ハミルトンは、経済成長に対する「信仰」を、現代社会のフェティシズムと表現しています。以下は彼の前掲書からの引用ですが、1930年代から1940年代のパプアニューギニアで実際に盛り上がったカルト宗教に言及し、経済成長神話(Growth Fetishizm)の本質を説明しています。

1930年代から1940年代のパプアニューギニアでは、物質的に豊かなすばらしい新時代を予感した宗教運動が盛り上がった。人々が信じたのは、超自然の存在がもたらす「カーゴ」が新時代を創始するということだった。どこからともなくやってくる飛行機や船が、植民地の役人に荷物(カーゴ)を運んでくるのを観察することで始まった信仰だ。ときにはこの、「カーゴ・カルト」の信者が象徴的な滑走路や倉庫を作ってカーゴの到来に備え、伝統的な生活の手段を、信仰の邪魔になるとして捨て去ってしまうということもあった。

これを未開の民の迷信と笑うのは簡単だが、カーゴ・カルトと現代の経済成長フェティシズムは、実はとてもよく似ている。どちらも物質的な資産に魔力を認め、それを所有することで地上の天国が実現できると考える。それを達成するのがより多くの富、より多くの金銭だ。どちらにも預言者がいて一般大衆に信仰を説き、これからもより多くのカーゴが、より多くの金銭が到来して、信じる者に至福の境地をもたらすと説得する役割を担っている。カルト信者を支配する植民地の高官は大量のカーゴの所有者と定義され、経済成長フェティシズムに冒された人々の支配者は、大量の金銭の所有者と定義される。そしてどちらの場合も、同じようにカーゴまたは金銭を手に入れることで、誰もがそのエリート層に加わることができるという信仰が広く行きわたっている。先進国の人々はカーゴがどこからともなく現れるのではなく、生産する必要があると知っている点で違っているというかもしれないが、多くの人々は財産がどこからともなく、たとえばマルチ商法や宝くじや株式市場や脱税や、そのほか無数の「一攫千金のチャンス」で手に入れることがあると思っている。一攫千金のチャンスをものにするという内容の本を書いただけの人間が、その本の売り上げで一攫千金を実現したなどという話さえあるほどだ。そしてカーゴ・カルト信者と同じように、先進国でも多くの人々が伝統的な生活の手段を進んで放棄している。九時五時の仕事を捨てて、マナ(訳注: 昔、イスラエルの民がエジプトから脱出する際、荒野で神から与えられたという食物)を追い求めているのだ。

経済成長は人を幸せにしない
経済成長を社会の至上目的としてきた結果、先進諸国では戦後60年以上に亘って高レベルの経済成長が継続し、平均実質所得が何倍にもなるほどの成長を遂げました。特に超資本主義以降の成長は著しく、1980年に10.1兆ドルだった全世界の名目国内総生産(GDP)が、2000年には31.7兆ドル、2006年には48.3兆ドルと、25年間でおよそ5倍に拡大します。この間世界のGDPは年率6.2%で成長したことになります*(4)

日本でも、高度成長期を経て、社会全体が高度経済成長と大量消費の要請に合うように再構築され、人々はお金を使えば使うほどもっと使うように、という更なる圧力を受けるようになります。『三丁目の夕日』の時代と現在を比べて、約50年かけて「奇跡的な」経済成長を遂げた今、人々はより幸せに暮らしていると言えるでしょうか。ちょうどこのドラマの舞台になっている、1958年(昭和33年)から1991年を対象とした調査によると、この期間に日本の一人当たり実質GDPは6倍に増大しましたが、自己申告による幸福度平均は全く増えませんでした。米国でも1946年以来、同様の調査が継続しており、実質所得は当初の3倍に増加していますが、「所得にはとても満足している」と回答している人の割合が42%から30%へ、12%も減少しています。所得が何倍にも増えたにも拘らず、それに満足する人が減少するのであれば、社会全体として、どうして経済成長をここまで追い求める必要があるのでしょう*(5)*(6)

革命的な人事と経営スタイルで知られる、ブラジルのセムコ社のリカルド・セムラー社長*(7) が、MITでの講演 でジョークを飛ばしています。「自動車業界は100年前と現在では殆ど本質的な変化がない。100年前のフォードは、金属の車体、4つのタイヤ、ハンドル、内燃エンジン、ギア、4人乗り、時速30kmで走行していた。そして、100年間と数千億円を超える膨大な研究開発費を費やした現在も、金属の車体、4つのタイヤ、ハンドル、内燃エンジン、ギア、4人乗りで、時速27kmで走行している」。最後の「時速27km」というのは、交通渋滞や信号停止などを含めた実質的な走行速度を揶揄しています。

経済成長によって社会をよりよくする試みは、ほぼ全面的かつ必然的に失敗したと言うべきでしょう。セムラー社長のジョークのように、車の性能が破格に高まる反面、都市部の渋滞に収拾が付かなくなってしまい、経済成長そのものが病んだ社会を作り出し、所得が増えると同時に別の社会構造が生まれ、至るところで富の利点が相殺されています。お金持ちになるという過程そのものが問題を引き起こし、世界で最も裕福な筈の国民が、自分たちは惨めだと感じているのです。恐らく最も深刻な問題は、経済成長が社会を豊かにする事実が存在しないにも関わらず、経済成長がこれほど社会で重要視されているということは、社会において、世の中をよくしようと考えている人が実質的に殆ど存在しないことを意味する、ということです。いったい何を間違ってしまったのでしょう?

成長の構造
経済成長には、例えば、環境と両立しないという重大な問題があります。現在の経済は自然環境や土壌や化石燃料という再生不能な「資本」を日々取り崩し、これを収益として認識することで経済成長を達成しています*(8)。もしも企業が自己資本を取り崩して、その額を利益に計上していれば、まともな会計士であれば粉飾決算を指摘するでしょうし、経営者であればその企業が順調だなどとは考えないでしょう。自分が既に持っているものを、利益として計上する行為は、蛸が自分の足を食べて空腹を満たすようなものだからです。資本主義のシステムは、このような「粉飾決算」を前提に全てが成立していますが、この現象は経済成長によって等比級数的に加速するため、最終的にはどこかの時点で一気に破綻を迎えることになります。

このような現象は、自然環境や化石燃料に限らず、有限の環境下で無限の成長を追及する資本主義の構造的な問題で、現代社会の至るところに同様のパターンが生じています。あまりよい例ではないかもしれませんが、この原理は、物質的に有限な人体と、等比級数的に増加するウィルスの関係に似ています。ウィルスは人体に寄生して、本質的な生産活動をしませんが、人体のエネルギーを取り込んで等比級数的に増加します。しかしながら、人体の成長は有限かつ物質的に逓減するため、いずれ寄生しているウィルスが人体を食い尽くすことになります。ウィルスは人体なしで自ら存続し得ませんので、自らの成長によって、自らの存在の拠り所とするシステム(人体)自体を崩壊させ、結局自分自身を含む全てが破綻します。「自然環境と資本主義社会」、「人間性と現代経営」、「農業と工業」、「土壌と化学肥料」、「実体経済と金融資本」など、いずれも「人体とウィルス」の関係にあり、本質的に全く同じ問題を抱えています。これは資本主義における「成長」という現象の構造的問題であるため、このパラダイムの内部で解決することができません。システムの崩壊を防ぐためには、どこかの時点で物質的成長パラダイムそのものを放棄し、質的な成長に移行する以外に解決方法は存在しません。

経済成長の原因
所得の増加が人々を幸福にせず、経済成長が社会を豊かにしないことが事実だとしても、人々がこのような社会の被害者だと単純に考えることは、適切ではないかもしれません。所得の増加と人々の幸福感について、前掲クライブ・ハミルトンは重要な事実を指摘しています。前掲書から二箇所引用します。

経済成長が継続するためには、人々の欲望が所有しているものよりも大きくなければならず、個人が常に自分の持っているものに不満を感じていることが決定的に重要になる。経済成長は人々の欲求を満たして幸福を増進するものだったはずだし、経済学は少ない資源を最もうまく使って福利を最大化するための学問だったはずだが、現実は、人々が不満足であり続けないかぎり経済成長を持続することができない。つまり、経済成長は幸福を作り出すものではなく、不幸に因って維持されるものなのだ。このような資本主義が生き延びようとすれば、人々を常に不満足なままにし続けなくてはならない。

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ジュリエット・ショアの著書『浪費するアメリカ人』によると、年収が10万ドル(約1,000万円!)を超える家庭の27%が、必要なものを全て買うゆとりがないと話しているという。「全体として、世界でもっとも豊かな国々の国民の半数以上は、必要なものを全て買うゆとりがないと考えている。しかもそれは貧しい方の半数だけではない」。さらに年収が5万ドルから7.5万ドルの層の1/3以上が、基本的に必要なものを買うだけで収入が殆ど飛んでしまうと答えている。2002年にオーストラリアで行われた同種の調査では、上位20%の富裕層のうち46%が、必要なものをすべて買うゆとりがないと答えている。またショアはアメリカ人に「すべての夢をかなえるために必要な年収はどのくらいか」と尋ねた結果を紹介している。1986年にもっとも多かった回答は5万ドルだったが、8年後にはそれが10.2万ドルに上昇していた。

人々は経済成長によって少しも幸福になっていないのですが、人々はその被害者であるという以上に、原因そのものだということではないかと思います。「幸福ではない」、「十分ではない」、「お金が足りない」、という人々の価値観*(9) が、社会にこれほどの弊害を引き起しながらも、経済成長を強力に誘引し続ける恐らく最大の原因であり、世の中の多岐に渡る問題の原因は、「お金があれば、幸せになれる」という、人々の信念(幻想)に起因している、と考えられるのです。そして、この仮説がもし真であるならば、「幸せになれば、お金がついてくる」という信念へパラダイムを転換することで、社会の多岐に亘る問題を一気に、そして劇的に改善することができる筈です。

【2008.12.16 樋口耕太郎】

*(1) クライブ・ハミルトン著『経済成長神話からの脱却』嶋田洋一訳、2004年11月、アスペクト社、49p。英語オリジナルは2003年に発表された「Growth Fetish」

*(2) 経済成長の概念で重要な役割を果たしているGDPは、この複雑な問題を更に悪化させる原因にもなっています。GDPが経済成長の実体を測る上で、最も適当な指標だと信じて疑わない人が大半ですが、GNPはもともと二つの世界大戦と大恐慌時代、あまりにも大きな景気循環の波に翻弄された政府が、経済を管理するためにもっとましな手法を必要としたために開発された経緯があります。国民経済計算のシステムを開発したクズネッツ本人は、GNPの限界を強く認識しており、GNPなどの数値を繁栄の指標として扱うことに繰り返し警鐘を鳴らしています。例えば、1934年の議会証言において「国民の幸福度を国家の収入から推し量ることは殆どできない」と述べています。1962年には、「国民経済計算の構造と利用の仕方は再考しなくてはならない」と書くまでになりました。「経済成長の量と質、費用と収益、短期と長期の違いは、はっきりと区別しなければならない。更なる成長を目的とするならば、何を何のために更に成長させるのかを特定する必要がある」。いずれの警告も無視されたまま、現代に至っています。

*(3) 私は経済学の研究体系を網羅的に理解しているわけではないので、このコメントについては、上武大学大学院、池田信夫先生の『池田信夫blog』、2008年12月5日エントリー「幸せってなんだろう」を参照しました。月間200万PVを超える経済ジャンルの人気ブログですが、池田先生の直線的な発言に賛否両論あるのも事実です。

*(4) Mapping Global Capital Markets, Fourth Annual Report, January 2008, McKinsey Global Institute.

*(5) ハミルトン前掲書。本書の2章においては、経済成長と所得の増加が人々の幸福に結びつかない、という実証研究が山ほど紹介されています。状況証拠としては十分といったところでしょうか。彼の結論は以下の通りです。

以上、ここまで見てきた証拠から、大まかに次のような結論を導くのは論理的に妥当なところだろう。国民所得があるレベル以上になると、豊かな国の人々も貧しい国の人々より幸福というわけではなくなる。どの国においても、裕福な人々が普通の収入の人々よりも幸せなわけではない。人は裕福になっても幸福になるわけではない。この結論は日常の食料や家や医療にも事欠く非常に貧しい人々にもそのまま当てはまるわけではないが、基本的な結果として、裕福な国で経済成長によって国民所得が向上しても国民の幸福度は上がらない、という事情に変化はない。さらにいえば、成長を最大化するための経済構造や政策は、貧しい人々の生活を改善するための手段を犠牲にすることになる。

*(6) ダイアン・コイル著『ソウルフルな経済学』室田泰弘・矢野裕子・伊藤恵子訳、2008年12月、インターシフト社、158p からの孫引きです。オリジナルの研究は、Easterlin, R.A. 1995. “Will raising the income of all increase the happiness of all?” Journal of Economic Behaviour and Organization 27(1):35-47. 以下補足です:

以上は日本を含む先進国における傾向です。貧困国ではGDPが伸びればそれだけ幸福度も増加します。年間一人当たりGDPが1万~1.5万ドルがひとつの境界で、それを超えると平均所得の額は、国民の人生への満足度の上昇にあまり関係がなくなるようです(前掲ダイアン・コイル158p)。

*(7) リカルド・セムラー社長とセムコの経営は、リカルド・セムラー著『奇跡の経営 一週間毎日が週末発想のススメ』岩元貴久訳、2006年2月、総合法令出版 (原題:The Seven-Day Weekend: Changing the Way Work Works)、 リカルド・セムラー著『セムラー・イズム 全員参加の経営革命』岡本豊訳、2006年10月、SB文庫(原題:Maverick: The Success Story Behind the World’s Most Unusual Workplace)などに詳しいのですが、一言で表現すれば、企業に関わる人の幸福を重視した人間中心の経営を目指し、企業の成功を利益や成長だけで測ることを放棄し、経営からコントロール機能を取り去り、社員が職場を自分が働きたいと思える場所にすることと、社員の直感を何よりも重要視することで、外部資本を使わずに年間40%の成長を続けながら、従業員の離職率が実質的にゼロという実績を持つ「異色」企業というべきでしょうか。セムコでは、

・組織階層がなく、公式の組織図が存在しません。
・ビジネスプラン、企業戦略、事業計画がありません。
・会社のゴール、企業理念、長期予算がありません。
・決まったCEOが不在ということもよくあります。
・副社長、CIO、COOがいません。
・標準作業を定めず、業務フローもありません。
・人事部がありません。
・キャリアプラン、職務内容書、雇用契約書がありません。
・誰もレポートや経費の承認をする人がいません。
・作業員を監視・監督していません。

セムコと云えども、資本主義の成長パラダイムから完全に逸脱したわけではないと推測しますが、それでも、質的成長へのパラダイムシフトのインスピレーションを与えてくれる事例だと思います。

*(8) エルンスト・シューマッハー著『スモール・イズ・ビューティフル』小島慶三・酒井懋訳、1986年4月、講談社学術文庫、を参照しています。オリジナルは1973年に発表され、第一次オイルショックのタイミングとも重なって、世界のベストセラーになった古典的名著で、30年以上前に書かれたとは思えない新鮮さがあります。

エルンスト・シューマッハーは1911年ボン(ドイツ)生まれの経済学者・思想家・ジャーナリストです。ケインズから高く評価され、彼の後継者とみなされた時期もありました。英国・ビルマ・インド各政府の経済顧問、英国石炭公社顧問、有機農業を推進する土壌協会会長、共同体経営を試みるスコット・バーダー社顧問などを勤めるほか、ガンジーの思想に強く影響を受けて東洋社会への関心を強め、1955年ビルマ大統領の経済顧問としての赴任をきっかけに自ら仏教徒となった異色の経済学者です。環境・資源・技術・資本・労働をバランスした、理想的な経営組織・企業形態を生涯追及した実践家です。

*(9) 神戸女学院大学の内田樹(たつる)先生の人気ブログ、『内田樹の研究室』の最近のエントリー「窮乏シフト」に、幸福感とお金に関する秀逸な記述がありました。合わせてご参照下さい。

サブプライム危機を機に、Black Swanの概念とナシーム・ニコラス・タレブ博士に対する世界的注目度が急上昇中で、現在彼の講演料は1回6万ドル、『The Black Swan』に続く次回作の前払い金は400万ドルを超える勢いです。もっとも、大恐慌以前から、Black Swanの重要性を認識していた学者が他に存在します。シカゴ大学で50年に亘って教鞭をとった経済学者フランク・ナイト博士(1885-1972年)は、「予想ができない領域」が存在する、ということの経済学的重要性を認識していた一人です*(1)。彼は、発生確率が予想できる危険を「リスク」、それが予想できない危険を「不確実性」と呼んで区別しました。タレブ博士のBlack Swanは、フランク・ナイト博士の「不確実性」の概念に該当します。

フランク・ナイト博士の思想における、市場における競争原理と、不確実性と、企業の利潤の関係を、慶応大学の竹森俊平先生が最近の著書*(2) の中で明快に解説 していますので、以下に引用します。

彼(フランク・ナイト博士)に言わせれば、価格を引き下げてライバルから市場を奪おうとして企業が熾烈な競争を展開している市場において、企業家は確率予想のできない危険、すなわち「不確実性」の領域に踏み込むことによってのみ利潤を得られる。なぜなら、事業に関わる危険が、確率予想のできる「リスク」だけであるならば、事業についての収入と生産費の期待値が計算できてしまうからだ。そうだとすると、収入の期待値が生産費の期待値を上回り、平均的には利潤がその事業に見込まれるという場合には、企業間の熾烈な競争が継続するだろう。その結果、収入の期待値は生産費の期待値にまで下がって、平均的には利潤は消滅せざるを得ないのである。

それに対して、危険についての確率予想のできない「不確実性」の領域に踏み込むなら、企業家は時に利潤を得られる。なぜなら、「不確実性」の領域では、利潤についての確率予想も成り立たないから、いかに強力な競争の力をもってしても、利潤がゼロまで下がるとは断言できないからだ。ある企業家が、他の者から見ればあまりに無謀な事業に乗り出している場合には、他の者はその企業家に競争を挑もうとしない。それゆえ、その企業家が運よく利潤を、しかも莫大な利潤をつかむということもありえる。

これはもちろん、「不確実性」に挑戦する企業家に、必ず利潤が保証されているということではない。計算の立たない危険に身をさらしているのだから、むしろ殆どの企業家は利潤を実現できないまま市場から退出する。

競争原理とリスク
要は、「自由競争の下では、過剰なリスクをとらなければ利益が生まれない。しかし過剰なリスクをとることで、大半の企業はいずれ破綻してゆく」、すなわち、「競争する事業は成り立たない」ということです。このフランク・ナイト博士の発想を素直に解釈すると、「そもそも資本主義と競争原理は両立しない」という可能性*(3) が示唆されますが、それが、サブプライム危機の根源的な原因なのではないでしょうか。競争環境で多額の利益を一定期間生み出すことが原理的に不可能であれば、これを実現するためにはある種の「ごまかし」が必要で、それがトレーディング事業を通じた、(オフバランスのような)制度の裏をかく裁定であり、(投資銀行のような)過剰なレバレッジであり、(証券化のような)裏づけのない請求権の拡大であり、いずれも行き過ぎるとバブルを生み出す原動力となります。超資本主義の浸透が企業間の競争を生み、大半の業種が利潤をすり減らす中、少なくともつい最近までは、金融業だけが空前の利潤を享受していた現象は、金融業がトレーディング事業を通じて「不確実性」の領域に大きく踏み込み、過剰なリスクをとることの対価として、桁外れの利潤を捻出していたと考える方がむしろ自然です。このように考えると、超資本主義による競争原理の浸透が、資本主義自身を崩壊に導くのは必然なのかも知れません。・・・「競争原理が社会の効率を高める」、が資本主義の第二の幻想であることの所以です。

ここで竹森先生は、サブプライム危機の本質を理解する重要な二つのポイントを指摘しています。①「不確実性」に基づく利潤は、稀に得られることがあるのみで、むしろ大多数は失敗するのが普通である筈なのですが、金融業と金融専門家の破格の利益と報酬は最近まで業界の大半が、継続的に享受していた点、②金融業の先端的なリスク管理は、確率論的予想に基づいているため、金融業はあくまでも「リスク」の領域でビジネスを行っていた筈ではないのか、という点です。

熾烈な競争環境で、リスクが十分に管理された安全な商売を嗜好しながら、業界の大半の企業に空前の利益が長期間継続するなど、そもそもあり得ないことです。上記二つのポイントに対する合理的な回答は、事実上ひとつしかありません。「リスク」の領域で、金融業界のほぼ全員が莫大な利益を享受することはあり得ませんので、金融業界全体が「リスク」の領域であると偽って「不確実性」の領域に踏み込んでいたことは明らかですし、「不確実性」の領域で、市場参加者のほぼ全員が、比較的長期間に亘って事業を成功させ続けることはあり得ませんので、空前の利益と言われていたものの実体は、金融業が踏み込んだ「不確実性」の領域に存在する予測不能かつ莫大な危険を引き受けることに対する代償(プレミアム)に過ぎなかったといえるでしょう。本来貸してはいけない人に、大甘な与信審査を行い、将来の価格上昇を前提とした不動産担保評価を基に、多額のローンを提供したサブプライムローンの証券化は、「不確実性」の領域にある莫大なリスクを、証券化のプロセスと高格付けによって厚化粧し、あたかも「リスク」の領域における商品であるかのごとく販売する行為の典型であり、空気に格付を付けて販売するようなものです。

リスクをお金に換える
「不確実性」の領域にあるリスクを収益化する典型的な事例が、サブプライム危機の主役の一人ともいうべきクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)です。CDSはある種の保険商品で、CDSの買い手は保険料を払う代わりに、対象企業が貸し倒れた場合の元利金の支払いを第三者(CDSの売り手)に保証してもらう契約です。CDSは投資家を企業破綻リスクから保護するための保険商品として開発されたのですが、保険の売り手にとっては、将来貸し倒れが生じた場合の支払いを約束することで、少なくとも当初は現金を拠出せずに保険料を受け取ることができるため、金融的には、自己資金ゼロ、100%の高レバレッジの投資と同等の効果があり、貸し倒れさえ生じなければ、CDSを売れば売るほど運用利益が増加します。最終的に履行できるかどうかはともかく、保証を約束するだけで現金収益が生まれるCDS契約は、ファンドや生保の投資収益を極大化する手段として適当でした。2001年には63兆円だったCDSの市場規模(名目元本残高)は、ピークの2007年末には6,200兆円を超え、過去6年間の増加率は実に約100倍を記録しています*(4)。CDSの最大の売り手であったAIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)は、サブプライム危機において、フランク・ナイト博士の理論どおりに破綻し、実質的に国有化されています。

「不確実性」の領域にあるリスクをお金に換えるもうひとつの事例は、コミットメント・ラインと呼ばれる融資契約です。これもCDSと同様、「将来の約束」を「現在のお金」に変える金融取引であるため、「できもしない約束を乱発するほど目先儲かる」という原理が働きます。ラインの概念自体は昔から存在するシンプルなもので、ラインの借り手に将来資金ニーズが生じた場合は、あらかじめ約束された上限額まで融資を実行する代わりに、コミットメント手数料を受け取るというものです。物事を複雑にしたのは、銀行や投資銀行が会計上のオフバランスを利用して、実質的なレバレッジを極大化するために多用された点です。『次世代金融論《その10》』で述べたように、オフバランスは、事業と金融の実体はどうあれ、コントロールする資産があたかもそこに存在しないかのごとく会計処理を行うことで、実質的なレバレッジを最大化するものです。会計上存在しないはずの資産から収益だけを計上することができれば、事業の利益率が高まるのは当然のことですが、これも先端「金融工学」の一手法ということになります。

コミットメント・ライン取引には、サブプライム危機に関する一連の報道で、SIV(Structured Investment Vehicle)や、ABCP(Asset Backed Commercial Paper)というキーワードで表現される金融取引が関連しています。銀行や証券会社は、自己資本規制を逃れるために(そして、レバレッジを最大化するために)、会計上オフバランスのファンド(SIV)を設立し、SIVがABCPを発行して資金調達を行い、その資金でサブプライム証券など、「不確実性」が沢山詰まった金融商品に投資を行いました。…なにやら複雑な取引のようですが、本質的には、銀行が自らCP(コマーシャル・ペーパー)を発行して調達した短期の資金で、リスクの高いサブプライム証券に投資するという単純な行為です。これらの取引が全てオンバランスでなされたとすると、借り換えリスクの高いCPで、リスクの高い投資を行う、素朴な(間抜けな?)投融資事業に過ぎないのですが、オフバランス、証券化、格付、SIV、ABCP、という「金融工学」のお化粧をすると、とても高度なものに思えてしまいます。かつて1980年代に、アメリカのS&L(Savings and Loan Association:日本でいえば中小の信金・信組です)が、短期資金でジャンクボンドを買い込んで大量に破綻しましたが、目先の利益を得るために、短期の資金で長期のリスク資産に投資して銀行が破綻に至るプロセスは、銀行破綻の典型的なパターンであり、個人経営のS&L経営者と「最先端」のウォール街の投資銀行家は、本質において全く同じ経営判断を行っています。

会計上オフバランスであっても、銀行の信用補完がなければ、SIVがABCPを発行して資金を調達することはできません。投資家が納得しないためです。このため、銀行はSIVに対してコミットメント・ライン契約を締結し、短期のABCPを資金源とするSIVが、万一、ABCPの借り換えに失敗して資金繰りに詰まる場合には、本体行から資金供給が受けられるようにしました。この仕組みの「利点」は、銀行側から見れば、融資を実行せずにコミットメント手数料を得られることはもちろん、大量の債権投資をオフバランスで行うことで、財務の見かけ上、収益率が大幅に高まる点です。ABCPの投資家にとっては、銀行がいざとなればSIVに資金供給を行うことが約束されているため、本体行のCPを購入するのとほぼ同等のリスクで、CPよりも高いABCPの利回りを享受することができる、ということになります。サブプライムやリスク資産のことを別にしても、何のことはない、銀行はオフバランスという財務上のお化粧のために、短期資金の調達コストを上げ、実質的な企業価値を下げている可能性が高いのです。

以上の結果は、その後の報道の通りです。サブプライム証券の暴落に伴って、ABCPの借り換えが滞り、銀行はコミットメント・ラインの履行を求められます。大幅に価値が下落し、流動性を全く失った証券を担保に実行する融資は、直後から不良債権となり、銀行のSIVに対する関与度合いが上昇せざるを得なくなります。これが会計上の規定に抵触し、銀行は、多額の損失を抱えたSIVのオンバランス計上を余儀なくされ、巨額の評価損を発表することになります。サブプライム危機でシティバンクやその他の大手行が実質的に破綻したのはこのようなメカニズムによります*(5)

問題の本質
かつての銀行中心の時代には、銀行業と証券業を完全に分離したグラス・スティーガル法の運用や、証券発行に厳しい規制をかけるなどして、銀行が取引の中心となるように金融制度が設計されていました。銀行同士が過当競争によって利益を減らし、過剰なリスクをとることがないよう、アメリカでは州を越えて支店を拡大することが禁止されるなど、競争を制限する規定が多く設けられ、銀行の利益は事実上保証され、金融システムの安全が何よりも優先されていました。やがて、超資本主義の浸透によって、規制緩和と競争原理が金融業界にも浸透し、安定した銀行経営よりも、より高いリスクの対価としての高収益、より高い効率と大きな事業規模が生き残りの必要条件となります。サブプライム危機の問題の根本は、超資本主義環境による競争原理の下で、「計算できるリスクの範囲で、高利潤、高報酬を実現」しようとする、無理な要求そのものにあります。要求が無理なものである以上、合法的に、実質的な「ごまかし」商品を開発・販売する以外に、これを「実現」する方法は存在しません。サブプライム危機は超資本主義における、競争原理と規制緩和の社会的枠組みが生んだ結果に過ぎず、一般的に指摘されている、格付機関の投資銀行寄りの姿勢や、投資銀行家の利益追求主義と高額報酬や、市場原理主義とグローバリゼーションなどは、問題の根本的な原因ではないのです。

トレーディング社会の弊害
以上のプロセスの大半は、トレーディング事業とそのメカニズム(①裁定、②レバレッジ、③請求権の拡大)によって仲介されていますが、金融機能を果たすべき投資銀行がトレーディング事業に偏重すると、社会におけるお金の流通コスト(資本コスト)が上昇するなど、社会的に数々の弊害が生まれることになります。

「本来」の金融をお金の流通業と捉えると、社会的に効率の高い金融とは、余剰資金を保有する人(投資家)のお金を、必要とする運用者(企業など)に対して、低コストで融通する機能と考えられます。金融効率が高まることによる付加価値は投資家と運用者に還元され、投資家の利回りが高まり、運用者の資本コスト(資金調達コスト)が下がります。株式売買におけるネット証券の拡大などは、このイメージに重なります。それはあたかも、問屋業において、バーコードなどのデジタル商品管理・コンピュータ化・機械化を導入することで処理能力を高めて流通コストを下げ、生産者と小売業に利益を還元することでシェアを獲得しながら事業を成長させる姿に似ています。これに対して、金融会社がトレーディング事業を拡大して裁定を始めると、今まで顧客であった投資家や企業に対して、金融会社が「買い向かう」ことになり、お金の流通コストが増加するだけでなく、産業の健全な成長を阻害することになりがちです。問屋業で例えれば、醤油を蔵から仕入れてスーパーに卸していた問屋さん(流通業者)が、ある日を境にトレーディングポジションを取って、自己の利益を最大化しようとすることに似ています。

銀行に就職して金融を学び、企業留学でMBAを取得したある問屋の五代目若旦那が、代替わりで地元に戻って家業を継ぐことになりました。若旦那は先代までの「古い」商売のやり方を改め、薄利多売が常識だった問屋業界に「イノベーション」を起こそうと考えます。醤油を安定的に仕入れるよりも、外資系金融機関と組んで大量の資金を調達し、醤油蔵が経営危機に陥るタイミングを計り、破綻した蔵会社を在庫ごと安く買い叩いて大量に仕入れ、蔵会社の従業員を解雇して利益を確保しながら、在庫を高値で高級食材店に卸す(業界では「バリューアップ」と呼ばれています)、またはこ洒落たネーミングを付け、有名デザイナー作のラベルを貼って「こだわり」商品を「ブランド」化し、富裕層に対して直販する(同じく「事業再生」と言うようです)新事業に進出します。利益水準は通常卸業の数パーセントに対して、トレーディングであれば数百パーセントの利益率を実現することも珍しくありません。反面、取引は単発的で継続性がなくなり、事業的な安定性を失い、顧客との信頼関係は消滅し、市場からは時間をかけてよい製品を作り出す蔵が激減することでしょう。著しく短くなった商品サイクルをカバーするため、対象商品を醤油から、吟醸酒、ワイン、シングルモルトなど、より「クリエイティブ」で「付加価値の高い」(しかし流動性の低い)業態に展開します。トレーディング事業を始めた若旦那は、莫大な収益を生み出し、短期間で株式上場を実現して、メディアで大きく取り上げられ、業界の革命児と呼ばれ、講演会の依頼が急増し、表紙や帯に大きな顔写真が載った著書が発売されます。やがてこのような商品に本質的な付加価値が存在しないことに顧客が気が付き始め、また、市場の変化によって不良在庫を抱え、外資系の戦略転換によって資金繰りに窮し、あっけなく破綻します。

*以上で、『次世代金融論《その6》』より継続していた、資本主義の第二の幻想「競争原理が社会の効率を高める」、についての議論を終了します。次稿は、資本主義の第三の幻想「経済成長が社会を豊かにする」、についての議論へと続きます。

【2008.11.22 樋口耕太郎】

*(1) フランク・ナイト著『危険・不確実性および利潤 』(現代代経済学名著選集 6)、文雅堂銀行研究社、1959年3月、原版は1921年に発表され古典的名著との評価を受けています。和書は絶版になっているようですが、洋書版は2006年3月のエディションが入手可能です。

*(2) 竹森俊平著『資本主義は嫌いですか』、日本経済新聞出版社、2008年9月。引用は序文より。本書はサブプライム危機を理解するうえで重要な海外の先端経済論文の解説、といった内容です。膨大な情報量の中から、サブプライム危機の本質にかかるものを抽出して、比較的平易な言葉で表現されており、お勧めの一冊です。

*(3) 「資本主義と競争原理は両立しない」、という仮説に対して、「競争原理を前提とする資本主義が現実に成り立っているではないか」、という反論が当然想定されます。しかし、サブプライム危機が生じる前の金融業界も、不動産と金融バブルを前提として「成り立っていた」(どころか、この世の春を謳歌していましたが)ことと同様、戦後60年間継続しているアメリカ中心の資本主義が、アメリカ経済とドルの過大評価、という超長期かつ最大級のバブルを蓄積し続けることで成立してきた可能性があると思います。本当にアメリカが経済的実力を発揮していたのは1971年のニクソンショックと金本位制度の崩壊までで、ドルが金の裏づけを失ったという事実は、ドルがバブルに向かう明確なサインと考えられます。そして、1971年は超資本主義が誕生した時期と重なるのは偶然ではないと思います。

通常であれば、このような議論はほとんど現実味がないのですが、大きな社会の転換点においては、逆に最も実質的な意味を持ちます。私は、サブプライム問題に端を発した金融危機は、単なる金融危機ではなく、1929年の大恐慌から80年、第二次大戦後60年継続してきたアメリカ・ド ル・石油本位資本主義経済制度の転換点ではないかと考えており、その後の世界経済と社会の大変化を前提とした次世代金融と経済制度の青写真を提示すること が、『次世代金融論』の趣旨でもあります。詳細についてはまだまだ続く本稿で後述します。

*(4) International Swaps and Derivatives Assiciation, Inc. (”ISDA”) ウェブサイトより。 ISDA Market Survey.

*(5) アメリカ大手行の試練はまだまだ続くでしょう。今後の問題は、デトロイトの自動車産業の連鎖倒産と、商業不動産の大暴落に飛び火すると思いますが、特に商業不動産は金融機関の大量解雇によるオフィス需要の激減に加えて、住宅価格の暴落によって消費が冷え込み、アメリカ中でホテルの稼働率が急低下し、ショッピングモールが経営危機に陥り始めています。商業不動産担保証券(CMBS)のリスクプレミアムが異常な上昇を示しているのも気になります。更に、裾野が広い自動車産業の破綻は、個人消費を直撃し、相乗的に問題を拡大することでしょう。オフィス、ショッピングセンター、ホテル、アパートなどの商業不動産は金融会社の経営に直結していますので、一瞬危機を脱したかに見える大手行ですが、もう一度実質的な破綻に瀕する可能性が高いと思います。先月もシティグループとゴールドマンサックスの合併の検討が報道されていますが、早くもその兆候が現れているのかも知れません。(11月25日追記: アメリカ財務省は日本時間の11月24日、シティグループに約2兆円の出資と最大30兆円の資産保証を行うと発表し、シティグループはサブプライム危機以降、先の救済的増資に次いで実質的に2度目の破綻を迎えました。)

トレーディング収益を構成する第三の要素、請求権の拡大*(1) は、例えば、前述の地方君(『次世代金融論《その9》』参照下さい)のように担保掛目70%の保守的なローンを融資するよりも、プロ君のようにレバレッジを駆使して95%まで目いっぱい貸し付けた方が、より多くの請求権を生み出しトレーディング収益が最大化する、というイメージです。

ジャンクボンドの帝王といわれ、80年代後半のウォール街を席巻したカリスマトレーダー、ドレクセル・バーナム・ランベール証券のマイケル・ミルケンは、例えば100億円の資金調達を希望する企業に対して、120億円のファイナンスを提案することが常でした。ファイナンスの増額によってドレクセルはより多くの手数料収入を得、一方、この企業が余分にに調達した差額の20億円は、ドレクセルが取りまとめる他のジャンク債への投資に振り向けられます。・・・投資銀行が請求権の増加を収益化するプロセスと、その過程でバブルが発生するメカニズムがよく分かる事例です。

このように、トレーディングビジネスの本質として、レバレッジの極大化と同様に、請求権を拡大させようとする強いインセンティブが働きます。サブプライム問題が表面化して以降、皮肉たっぷりに「金融工学は、本来お金を貸し手はいけない者にお金を貸す技術」と揶揄されていますが、トレーディングに大きく依存した投資銀行事業の本質を的確に捉えています。

証券化が生み出す請求権
請求権の拡大とは、市場創造と信用創造によって金融資産を新たに生み出すこと、・・・例えば新しい担保資産を見つけて証券化する、あるいは流動化するということ・・・、をおおよそ意味します。この方法によってトレーディング収益が極大化することが金融専門家の間で認知されると、「金融工学」のプロセスは、適切な事業に対して適切な信用を供与するという本来の金融機能から逸脱し、次第に、信用創造の裏づけとなる(≒証券化可能な)キャッシュフローを次々と開拓すること、更に、極小のキャッシュフローを裏づけとして、最大の信用を供与するという本末転倒行為に変質し、やがてバブルを生み出すことになります。

このような「悪い請求権」を創造するということは、裏づけとなるキャッシュフローが不十分である(かも知れない)にも拘らず、大量の与信をする、・・・まさに「貸してはいけない人にお金を貸す」という行為です。逆に、「悪い請求権」が成立するためには、本当はリスクが高い(かも知れない)請求権を、リスクが少ない投資であると投資家に説得できなれければなりません。これにはいくつかの方法がありますが、その中でもエクイティ金融資産をデットとして流通させることが典型で、このときにもレバレッジがよく活用されます。

前述の地方君は、100億円の不動産を担保に70億円の融資を行い、掛け目70%の請求権70億円を創造しました。残りの30億円はエクイティ(資本)と呼ばれ、将来不動産価値が下落した場合は、真っ先に損失を被るリスクの高い金融資産です。プロ君は、地方君よりも25億円多い95億円を貸し付け、この95億円の債権をまるごと証券化することで、30億円のエクイティ部分の大半をデット(債権)として機関投資家に転売します。お金を借りる方は、借り入れ額が増えて不動産投資に必要な自己資金(エクイティ)を30億円から5億円へ、25億円も減らすことができので、喜んでプロ君の提案を承認しますが、もちろん25億円のエクイティは消えてなくなった訳ではありません。プロ君得意の「金融工学」のプロセスを経て、25億円の「ミドルリスクのデット」として証券化市場で流通することになります。金融市場の大きな特徴として、エクイティを対象とする投資家よりもデットを対象とする投資家の方が圧倒的に運用額が大きく、かつ要求リターンが低いため、それが本質的には同じ金融資産であっても、エクイティとしてよりもデットとして販売する方が(もちろん、それが可能であれば、ですが)低コストかつ容易に販売することができ、大きな利益を生むのです。

プロ君は、掛け目70%から95%に相当するリスクの高い25億円の請求権(「Bピース」証券と呼ばれることがあります)を、できるだけ「安全な」デット証券として販売するために、一つの不動産を担保にした25億円のBピースではなく、例えば10都市に分散された10件の不動産を担保にした、2.5億円のBピースを10件集めて25億円の証券化を行います。Bピースばかりを集めるため、そこから生まれた証券の格付もBクラスになりそうなものですが、分散効果の理論によると、例えば過去30年間のデータに基づくと、ニューヨークとダラスとアトランタとシアトルなど、異なる産業構造を持つ異なる都市の、異なる不動産が、同じタイミングで同じように価格変動する可能性は低い、とされるのです。10都市に分散して存在する10件の不動産価格が一度に下落する可能性が低ければ、これらの不動産を担保としたBピースを集めて作られた優先証券も「安全」と考えられ、例えば25億円のうち優先部分20億円について、AAAの格付けを取得して販売することができるのです。すなわち、担保不動産の質は同じでありながら、資産を分散するだけで、掛け目70%の債権70億円と掛け目90%の債権90億円のリスクが(ほぼ)同等という趣旨の格付が付されることを意味します。これがサブプライム危機で注目された、リパッケージCDO(Collateralized Debt Obligation)の基本構造です。これは事業というよりも、道端に落ちている石を磨いて宝石として販売するようなものでしょう。証券化などを通じて請求権、特に「悪い請求権」を拡大するほど、「容易に」「多額の利益」を得ることができ、トレーディングが高収益「事業」として脚光を浴びるようになるのです。

リスクの高いリスク管理
バブルがはじけて宴の酔いが醒めると、さすがの金融専門家も「質の悪いものを集めて、高品質なものを生み出す」というCDOの理屈には無理があることに気が付きます。確かに過去例えば30年間、10件の異なる都市の不動産価格が同時に変動したことはなかったかもしれませんが、この理屈が本当に正しければ、過去破綻したことがない企業に対しては、無条件にお金を貸し付けて構わないということになります。そもそもリスクというものは、過去の経験やデータでは計り知れない不測な事象を示すものでしょう。過去を振り返ってみると、1929年の大恐慌、太平洋戦争、プラザ合意、ブラックマンデー、ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊、インターネットバブル、グーグルの登場などなど、社会の重要な出来事の大半(・・・というよりも、おそらく殆ど)は、その時点で全く過去に事例がないものばかりです。このような、重要な出来事ほど予測不能であるという世界観*(2) を前提とすると、過去のデータ分析や統計理論による「先端的な」リスク管理は、却って事業リスクを高める可能性があります。この環境で真に効果的なリスク管理は、社会の生態系と市場の本質を深く理解し、将来を大胆に予測し、戦略的な経営を実行する以外にありません。

反面、「リスクとは不測であるがゆえにリスクである」という単純な原理は、金融専門家の常識ではないようです。過去のデータと正規分布に基づく統計確率理論、効率的市場仮説、分散理論に依拠した巨大金融機関のリスクマネジメントが、大きな市場変動のたびに破綻していますが、そもそも「リスクは予測できる」という前提自体が、最大のリスクを生み出しているように思えてなりません。リスクマネジメントが「進んでいる」といわれるアメリカの金融機関から真っ先に、それも頻繁に破綻するのは偶然ではないと思います。

【2008.11.4 樋口耕太郎】

*(1) このような表現はそれほど一般的ではありませんが、金融資産の実体は請求権であり、与信行為は請求権の創造と考えることができるため、本稿ではその本質に即した表現を使用しています。

なお、本稿ではトレーディングの三つの要素を概念的に別けてコメントしていますが、現実には「同じ現象の異なる側面」といえるほど密接不可分です。裁定収益はレバレッジに よって拡大し、請求権を拡大するためにレバレッジが利用され、レバレッジが増加することで請求権が増大し、更には、請求権が増加することで新たな裁定機会 が生まれる、という関係にあります。

*(2) Nassim Nicholas Taleb, “The Black Swan: The Impact of the Highly Improbable” (邦訳未刊), Random House Inc. 2007.4.

経済学や金融リスクマネジメントの基本原則は、ほとんどが統計学の正規分布曲線で表現される標準的な確率論を前提としています。これに対して、トレーダーにしてマサチューセッツ大学教授でもある著者(ナシーム・ニコラス・タレブ博士)は、現実に世界を動かしているのは、伝統的な確率論では予測ができない極端な出来事、「Black Swan」であり、社会において、実はそれ程重要ではない一般的出来事が過大評価されていると指摘しています。

本書中の印象的な挿話ですが、フランスは第一次大戦でドイツ軍に一時蹂躙された経験を踏まえ、ドイツ軍が進軍してきた経路を精緻に調査し、国境沿いに防御壁を構築したそうです。第二次大戦が勃発すると、ナチス軍は当然のように、そして軽々と、これらの防御壁を迂回した進軍ルートによってフランスを占領します。・・・これを笑い話とするのは簡単ですが、フランス政府は当時、祖国と国民を守るために、大変な労力と資金をかけて、大真面目に防御壁を構築したに違いありません。「先端」金融会社が「先端」金融工学を駆使して構築・運用している「先端」リスクマネジメントは、フランス軍が構築した防御壁と本質的には同じものかも知れないのです。

正規分布において、±2標準偏差の範囲内にデータの95.45%が含まれるとされています。一般的な金融リスクマネジメントでは、過去の市場変動のデータを元に、自己資金のリスクポジションを±2標準偏差に収まるように管理する、などのように運用され、95.45%の事例に収まらない極端な出来事は、現実的には殆ど発生し得ないという前提に立ちます。しかし、例えば全世界の個人金融資産を正規分布で配布すると、ビル・ゲイツは±2標準偏差(すなわち95.45%のデータ)に収まらないのと同様、社会にインパクトを与える重要な要素は、むしろこのような標準偏差を逸脱したところにしか存在し得ず、残りの4.55%(100%-95.45%)にこそ、リスクマネジメントの本質が存在するという考え方です。

Black Swanが生じる確率分布は未知であり、これを予測する理論は存在しません。したがって、Black Swanは従来の「リスク管理」で対応することはできず、逆に、そのような正規分布と数理統計学に依拠した大半の「先端的」金融会社が、サブプライム危機のようなBlack Swanにおいてことごとく破綻に瀕しているのは偶然ではないと思います。結局、Black Swanがもたらす不確実性は経営者の決断によって解決するしかありませんし、それがリスク管理の本質といえるのです。

レバレッジの性質について議論を補足します。現代金融の難しさであり面白さは、見かけが必ずしも本質を表さないという点でしょう。トレーディングの本質は、経済価値の移転、すなわち(将来)キャッシュフローとリスクの移転です。例えば、ノンリコースローン*(1) による担保借入は、借り手の損失額が担保資産の額に限定されているという性質のために、担保資産から生み出される将来キャッシュフローとリスク(経済価値)を貸し手に一部移転する行為であり、金融的な売却(トレード)に似た性質を有しています。

レバレッジ・保険・トレーディングの深い関係
投資家が100億円の価値がある不動産*(2) を、何らかの理由で安く…80億円で…取得することができたとします。この投資家の取得簿価は80億円ですが、不動産の市場価格は100億であるため、金融機関や市場環境によっては100億円の評価を基準に借入を行うことも可能です。100億円の資産評価を基準にして80%のノンリコースファイナンス、すなわち80億円の借入を行うことができれば、この投資家は不動産の取得に要した80億円の資金を全額回収し、借入実行後は自己資金ゼロで時価100億円の不動産を所有することになります。この取引の現金移動を見ると、80億円で取得した不動産を、銀行(貸し手)に対して80億円で売却する行為と基本的に変わりません。単純な資産売却と異なる点は、将来資産価格が更に上昇した場合は、投資家が依然として100%利益を享受するのに対して、資産価値の下落リスクは貸し手が100%被るというということになります。その意味で、ノンリコースによる借入は、資産価格のダウンサイドリスクを銀行に売却するデリバティブ取引*(3) でもあるのです。このように、借入は売却と似た性質を持っているため、レバレッジをかける(借入を行う)という行為は、それがハイレバレッジであるほど担保資産の売却と同等の経済効果を生み出します。レバレッジがトレーディングであるということの意味は、このような点においても説明可能です。

この取引を貸し手(銀行)の立場から見ると、資産価格がどれだけ上昇したとしても、収益の上限は融資元本と金利の額であるのに対して、資産価格が80億円以下に下落した場合は貸付債権が不良化します。貸し手は担保資産を差し押さえ、時価で売却して資金回収を図ることができるのみです。売却価格が80億円を下回る損失に対しては貸し手が全額負担することになりますので、ノンリコースローンの貸し手は、借り手に対して、資産下落に対する保険を提供していると考えることもできます。すなわち、金融の本質において、レバレッジはトレーディングであると同時に保険の性質を持ち、そして同様のことですが、保険はトレーディングの一形態でもあるのです。

サブプライム危機は既にサブプライムローンだけの問題ではなくなっています。問題を構成する重大要素のひとつであり、ウォーレン・バフェットが「金融版の大量破壊兵器」と呼んだCDS(Credit Default Swap)は、JPモルガン銀行が1990年代に開発したデリバティブ(金融派生商品)の一種で、銀行が誰かにお金を貸したとき、それが返ってこないリスクをいかに軽減するかという発想から生まれたある種の保険商品です。貸し倒れた場合の元利金の支払いを保険会社や年金などの第三者に保証してもらい、銀行はその対価(保険料)を払います。これによって銀行はリスクをバランスシートから切り離し、融資の貸し倒れリスクに備える準備金として積み立てた巨額の自己資本(法定準備金)を取り崩して次の商売に回すことができるというものです。先月破綻し、納税者のお金で救済されたアメリカ最大の保険会社アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)は、このようなCDSの主要な引き受け手(すなわち保険の売主)でした。AIGはCDSを通じて住宅ローンの保証も積極的に行い、政府に救済された時点でCDS保証残高は4,400億ドル(50兆円弱)に達していました。このように、米国の不動産リスクは、ノンリコースローンによって不動産所有者から銀行へ、そしてCDSによって銀行から保険会社へと拡散しながら転売(トレード)されていたと捉えることもできます。

投資銀行とレバレッジ
ノンリコースローンなどによるレバレッジは、不動産などの原資産のキャッシュフローとリスクを、資産の所有者からローンの貸し手へ移転する効果があるため、金融的にはトレーディングとおおよそ同義であることは前述しました。一般に、レバレッジが高い借入ほど、売主(所有者/借り手)にとって割安、貸し手(銀行など)にとって割高な「売買」になります。高レバレッジによって収益率を極限まで高める投資銀行のレバレッジ事業モデルは、貸し手に対して資産を割高に「売却」することで、貸し手の利益を自己に移転する取引ということになります。今回の金融危機で投資銀行のレバレッジ・ビジネス・モデルが崩壊したと言われていますが、そもそもこのような単純な行為がビジネスモデルと呼ばれること自体、何かしらバランスを欠いているような気がします。

「容易に」「多額の」利益を生み出すレバレッジは、超資本主義社会における金融メカニズムが自ら生み出した劇薬のようなものです。レバレッジとトレーディング事業を追求したゴールドマン・サックスは、純資産に対して20倍以上のレバレッジをかけ、収益の75%をトレーディングに依拠していますが、この事業構造を素直に解釈すると、当社は既にお金の流通業としての金融機能を失っており、投資銀行と言うよりも「金融機能付の巨大ヘッジファンド」と呼ぶべき事業実態です。トレーディングは借入れ業におおよそ等しいと表現しましたが、この借入れ業が金融工学によって「高度化」すると、資金の貸し手に過剰なリスクをとらせながら低コストの資本を大量に借入れ、貸し手の利益を借り手(自分)に移転することで、自己資本に対する利益率を増幅させる、レバレッジ・ビジネス・モデルが完成します。

このレバレッジ・ビジネス・モデルは二つの大きな経済価値の移転を達成しています。第一に、多くの場合、レバレッジの「貸し手」とは最終的には預金者であり、生命保険契約者であり、年金を積み立てている労働者であり、MMF投資家であるため、個人金融資産を投資銀行へ移転する効果があります。第二に、ゴールドマン・サックスの例では、当社の株主がバランスシート123兆円分のリスクを引き受けた対価として1.3兆円の利益を得る間に、従業員は2.2兆円の報酬を得ています。すなわち、貸し手の利益を当社に、そして当社の利益を従業員、特に経営幹部に対して大量に移転する構造を持っているのです。このように考えると、投資銀行のレバレッジ・モデルは、事業モデルというよりも、経営幹部のための報酬モデルというべきでしょう。

ベアスターンズ、リーマンブラザーズ、メリルリンチの破綻・救済に続いて、先日全米第一位、二位の投資銀行、ゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーが相次いで銀行規制の監督下に入り、これでアメリカの大手独立系投資銀行は、実質的に全て消滅したことになります。しかし上記のように、本質的な意味においては、1990年代以降アメリカから投資銀行という金融業態は既に消滅し、「金融機能付の巨大ヘッジファンド」が限定的に投資銀行機能を果たしていたことになります。外形的な「消滅」はむしろ事実の後追いに過ぎません。

オフバランスというレバレッジ
レバレッジの概念を「自己資金の潜在的なリターンを増幅させる効果を持つ他人資本」と広く解釈すると、実に様々な形態の金融取引がレバレッジの性質を有していることが分かります。ノンリコースの借入はもちろん、保険、先物取引、スワップ契約、オプション契約、プライベート・エクイティ・ファンドなどのオフバランス(簿外)投資、証券化、あるいは特定の方法による資産の売却やマネジメント契約に到るまで、実に多岐に渡る形態が該当します。

この中でも、オフバランスという会計手法は、魔法に近いと思うくらいレバレッジ効果が高く、現代金融において広範囲に利用されています。簡略な説明をし過ぎると語弊があるかもしれませんが、オフバランスとは、実際には存在するものを、あたかも存在しないものとして会計処理することを認められた資産および取引の総称で、貸借対照表(バランスシート)から切り離された(オフ)という意味で、オフバランスと呼ばれています。要は資産を認識せずに利益だけを計上する会計手法なのですが、このような「いいとこ取り」の会計処理を行えば、自己資本に対する利益率が異様に高くなる(ように見える)のは当然でしょう。証券化やプライベート・エクイティ・ファンドなどはほぼ例外なくオフバランス会計処理がなされていますが、これらの事業が「高収益」を生み、花形ビジネスと一般に認識されている(た)のは、必ずしも金融専門家の投資・運用能力の高さによるものではなく、単なる会計処理(これを称して「先端金融」と呼ぶ人もいますが)に因るところが大きいかも知れないのです*(4)。取引をオフバランスで構成すると、会計上「存在しない」資産から収益が生まれることになるため、ほぼ無限大の自己資本利益率が計上され、投下資本ゼロでオフバランス資産全体の収益を取り込むことができるため、無限大のレバレッジ案件と同等の経済(会計)効果を生むことになります。

1990年代以降世界中で影響力が増したプライベート・エクイティ・ファンドはこの典型といえるでしょう。このようなファンドは通称オフバランス・ファンド、あるいはオフバランス・エクイティと呼ばれますが、その名の通り、ファンドを実質的に運用している投資銀行や運営会社のバランスシートには現れない多額の投資資金です。例えば、ゴールドマンサックスは不動産関連事業だけでも、2008までに累積約3兆円のエクイティ資金をファンドによって運用しています。この資本に借入を組み合わせると、少なく見積もっても10兆円の投資が可能ですが、これらの運用資産は当社のバランスシートに計上されることはありません。更に、これらのファンドが生み出す収益の一部を運用報酬という形式で利益に取り込むことが一般的ですが、利益は手数料として認識されるため、「フィービジネス」と呼ばれています。「フィービジネス」の語感には「資本を使わずに金融サービスの付加価値を収益化する」という、何かしら洗練されたニュアンスがありますが、実態は資本集約的かつレバレッジに依拠した収益が形を変えたものに過ぎません。

先に、ゴールドマンサックスは、123兆円の資産から1.3兆円(収益率約1%)の利益を生み出していると述べましたが、それはバランスシートに表現されているものに限ります。オフバランスの事業を含めると、現実には123兆円のバランスシートを遥かに超える金額の投資がなされている筈です。それは文字通りオフバランスであるため、当社が1.3兆円の利益を生み出すために動員されている資本の額は、どれだけ開示情報を分析しても結局誰にも分からないというのが、金融市場の現実です。

いつものコメントですが、以上は会計原則に対する批判ではありませんし、投資銀行事業への意見表明でもありません。超資本主義環境で拡大した金融システムに関する現状認識のひとつのアプローチであり、その現状認識に基づく世界観が正しいとも、唯一のものであるとも主張するものではありません。会計原則が現在の形で運用されているのには理由がありますし、膨大な会計体系の一部だけを取り上げて体系全体の評価することも全く建設的ではありません。同様に、投資銀行の事業についても、その正否を議論するのではなく、特に1990年代以降、現在のような事業形態に変化してきた事業環境やメカニズムを理解することで、その事業と生態系の本質を理解する一助になると考えるためです。ゴールドマンサックス社を多く引き合いに出していますが、これとても当社が米国の大手投資銀行の中で相対的に良い財務状態を有しているためであり、議論を保守的に展開するという趣旨に因るものです。

【2008.10.23 樋口耕太郎】

*(1) ファイナンスの裏づけとなる資産のみを担保とし、実質的な資金調達者に債務が訴求しない借入形態です。サブプライム危機で問題になっている現象として、物件価値がローン残高の額を下回った場合、オーナーはローンの返済を続けるよりも債務不履行を起こして、銀行に物件の担保処分を進めてもらう方が経済的に合理的であるため、不動産価格の下落に伴って債務不履行率がより生じ易いという面があります。

*(2) 本稿において、不動産資産関連の事例を多く引用しています。私が不動産金融を経験してきたということもありますが、不動産取引は収益構造がシンプルで、金融取引の原理を理解しやすいという利点があると思います。

*(3) 専門的に表現すると、不動産の所有者はノンリコースローンの借入によって、80億円を行使価格、当該不動産を原資産とするコールオプションとほぼ同様のポジションを取得したことになります。投資家にとって80億円のノンリコースローンの担保借入の実行は、80億円で取得した不動産資産を銀行に「売却」し、同時にこのようなコールオプションを銀行から「買い付け」るトレーディング行為と考えることもできます。

*(4) 例えば、ある投資家Aが、80億円の借入と20億円の自己資金で時価100億円の不動産を取得する一連の取引をオンバランスで行うと、資産100億円、借入金80億円、自己資本20億円がバランスシートに計上されます。不動産の収益率が100億円に対して5%(5億円)、ローンの金利が80億円の元本に対して2%(1.6億円)だとすると、営業利益は3.4億円(5億円-1.6億円)、投資収益率(税前)は総資産100億円に対して3.4%、自己資本20億円に対して17%の案件となります。投資家Aの法人実効税率を40%とすると、税引き後利益は2.04億円、自己資本利益率(ROE)10.2%です。

投資家Aがこの不動産を証券化すると、不動産資産は法律上第三者が「所有・管理」する特別目的会社(SPC: Special Purpose Company)に100億円で売却され、投資家のバランスシートから消えます。SPCは80億円の社債を発行すると同時に、残りの20億円の資本分に関しては投資家Aが出資持分として拠出することが一般的です。しかし、この20億円の出資持分は年間3.4億円、17%の収益が見込める優良投資案件ですので、この持分を17%以下の利回りでも構わないと考える別の投資家(顧客B)に売却すると、投資家Aの出資持分に対する収益が急激に上昇します。例えば簿価20億円の持分の半分を10%の利回りで顧客Bに売却するということは、3.4億円の半分の収益1.7億円を10%の利回り、すなわち17億円で売却するということを意味します。投資家Aは売却した半分の出資分の簿価10億円の資産を、顧客Bに17億円で売却し7億円の利益を計上すると同時に、残った10億円の簿価に対して、毎年17%、1.7億円の収益を得ることになります。証券化の期間が7年とすると、投資家Aの投資収益は、10億円の資本に対して、18.9億円(1.7億円×7年+7億円の譲渡益)、1年当たり2.7億円、年率27%の高収益案件に生まれ変わります。100億円の不動産資産はオフバランスとなって帳簿上から消え、投資家Aは堅実で「無借金」高収益経営と評価されます。更にこの案件に対する投資家Aの投下資本は10億円のみ、残り10億の自己資本は預金口座に残ったままであり、運転資金・流動比率も健全です。・・・しかし、その実態は、共同投資家(顧客B)から10億円の資本を10%の高利回りで預かり(約束した投資収益は実質的な借入です)、5%の収益を生む平凡な100億円の不動産に投資しているに過ぎません。

また、以上の取引における他人資本は、2%で80億円の借入と10%で10億円の出資金ですが、両者の資本コストを加重平均すると、実質的に90億円を2.9%((80億円×2%+10億円×10%)÷90億円)で借り入れていることになります。2.9%の資本コストで90%のレバレッジを掛けることができれば、どんなに平凡な投資であっても大概は高収益事業に変貌することは前稿で述べたとおりです。

トレーディングについての議論を継続します。資産証券化を利用したトレーディングの収益構造は、その見かけほど複雑なものではありません。例えば、100億円の価値がある不動産を担保に、5%の金利で70億円の7年ローン(債権)を融資し、この債権を証券化して、4.5%の不動産担保証券として販売します。商業不動産市場では5%の金利を支払ってお金を借りたい債務者(不動産の所有者)がいる反面、同等の信用力の証券であれば、4.5%の利回りで納得する投資家が証券市場に存在するため、この取引が成立します。5%の利回りで「買って」、4.5%の利回りで「売却する」裁定取引は、債権の買値(5%)と売値(4.5%)の差額(0.5%×7年×70億円=2.45億円)が売買益となるため、70億で融資した債権を72.45億円の証券として売却する行為と考えることもできます*(1)

このような裁定取引は、市場環境や重要な前提条件が大きく変化しない限り、確実に利益を生む性質のものですが、この事例における収益は、70億円の投資額に対して2.45億円、リターンは3.5%(税引前)に過ぎません。国際的な投資銀行に求められる自己資本利益率は15%~20%(税引後)であるため、この要求を満たすために、レバレッジを活用する必要が生じるのです。

レバレッジ
トレーディング事業を構成する二つ目の要素が、レバレッジ(≒借入れ)です。1990年代以降の投資銀行ビジネスは、レバレッジによって生み出される収益に著しく依存するようになっており、実質的には金融業というよりも、あるいはトレーディング業というよりも、レバレッジ業(≒借入れ業)と呼ぶべきではないかと思うくらいです。現代金融を理解するために、レバレッジの概念を理解することは避けられませんし、その理解の深さによって事業の成果も大きく左右します。

前述の不動産担保債権の証券化事業では頻繁に活用される手法ですが、担保付債権など、信用力の高い債権はレポ取引(REPO:Repurchase Agreement)を通じて、高いレバレッジをかけることができます。例えば、100億円の不動産資産を担保にした70億円(掛け目70%)のローン債権は、理論的には、担保となる不動産価格が、ローンの満期時までに30%以上下落しない限りにおいて元本の100%が償還する筈です。このように、ある程度信用力の高い債権であれば、満期まで保有しても、債務不履行によって元本が戻らないリスクは限られています。債権を担保にお金を貸している期間の期待損失が、仮に元本の5%だと考えられるとき、この債権を担保に、95%の融資を受けることが可能で、70億円の債権投資は、僅か3.5億円(70億円×5%)の自己資金で賄われることになります。先ほどの債権トレーディング事例における裁定利益は2.45億円で、70億円の資本投下に対して僅か3.5%のリターンを生む事業でしたが、レポ取引によって95%のレバレッジをかけ、投下する自己資本を3.5億円(5%)に圧縮すると、自己資金に対して70%(2.45億円÷3.5億円)のハイリターンを生む「高収益」事業に変貌するのです。しかし、現実に起こっていることは、5%の自己資本で100%の投資ポジション、すなわち20倍のレバレッジを利かせて投資を行い、20倍のリスクをとって、20倍の収益を得ているということに過ぎません*(2)

レバレッジとクラッシュ
1990年代以降の金融クラッシュは、原資産の価値がそれほど下落していないにもかかわらず、金融市場が大暴落に見舞われる事例が増えています。1990年代後半のロシア通貨危機から飛び火した、アメリカ商業不動産証券化市場のクラッシュの際も、アメリカの商業不動産市場は絶好調で、その平均資産価格は下がるどころか、混乱の最中にも上がり続けていましたし、サブプライム危機において、モーゲージ証券の価格が70%といった、通常では考えられない大暴落をしている状況においても、不動産市場は20%程度下落しているに過ぎないのです(前述のとおり、もともとの不動産ローンは、不動産価値に対して例えば70%など、一定の掛け目を上限とするため、この場合不動産が30%程度下落しても、本来であれば債権に損失が生じる可能性は低い筈です)。サブプライム危機において欧米の金融機関が発表している法外な損失額は、「単なる」不動産市場の暴落では全く説明がつかないと感じている人は少なくないと思います。原資産の価格がそれほど変動しないにも拘らず、金融商品が乱高下する大きな理由はレバレッジにあります。

金融市場の変化によって、資金の出し手の融資基準がほんの少し保守的に変化し、レポ取引を行う金融機関のリスク許容度が、例えば5%から6%に変更されたとします(「社債のスプレッドが拡大する」とはおおよそこのような状態を示します)。この瞬間、70億円の債権ポジションを維持するために必要な自己資金が3.5億円から4.2億円(70億円×6%)に、20%増加することになります。ほとんどの金融機関は利益を最大化するために、目いっぱいレバレッジをかけていますし、またそうでなければ、激しい競争環境の中で高額な人件費や必要な自己資本比率を達成することができません。自己資本の20%に相当する資金をすぐに調達することは事実上不可能ですので、やむを得ず投資資産を売却してレポ取引による借入れを減らし、自己資本比率を増加させる必要が生じます。しかしながら、掛け目が95%から94%に減少するということは、3.5億円の自己資本を前提とすると、70億円の投資ポジションを58.3億円まで、実に11.7億円も減少させなければなりません。往々にして一社がこのような状態である場合は、市場全体が同様の危機に瀕しています。11.7億円は70億円の約17%に相当しますが、債権残高の17%が一斉に投売りされれば、当然価格も大きく下落し、損失を被らずに現金化することは不可能です。損失が生じれば自己資本が毀損しますので、更に多額の債権を投売りしなければいけなくなり、マイナスのスパイラルが生じ、あっという間に自己資本が吹き飛ぶことになります。1998年のロシア通貨危機をきっかけとして、ソロモンブラザーズの伝説のトレーダー、ジョン・メリーウェザーが設立し、2名のノーベル経済学受賞者を運用チームに擁してドリームチームといわれたLTCM(Long-Term Capital Management)、ウォール街で「神」とまで言われたジュリアン・ロバートソンのタイガーマネジメントなどの超有名ヘッジファンド、CMBS市場で一世を風靡した米国野村證券の不動産ファイナンス部隊の破綻は、いずれもこのようなメカニズムによるものです。・・・そして、重要な点は、以上のような大混乱は、レバレッジの掛け目が僅か(上記の例では1%)変化した程度で生じ得る性質のものだということです。金融市場のクラッシュは、不動産などの原資産価値の暴落というよりもレバレッジの崩壊であるケースが多く、またそのようなときに大きな問題を生じるという傾向があります。信用供与水準の僅かな変化が市場の大暴落を生み出しているため、原資産の価格変動や市況の変化とはかけ離れた、金融市場の混乱が生じるようになっているのです。

レバレッジが生む高収益
レバレッジの大きな特徴は、高いレバレッジほど高収益が生まれるということです。例えば、何の変哲もない100億円の不動産を5%の利回り(すなわち5億円のキャッシュフロー)で投資を行う場合、仮に2%の金利で70億円(70%)の借入れを行うと、自己資金30億円に対して、毎年3.6億円のキャッシュフロー(5億円-70億円×2%)、すなわち12%(3.6億円÷30億円)の利回りの投資案件になります。同じ物件について、同じく2%の金利で75億円の借入れを行ったとすると、自己資金25億円に対して、毎年3.5億円のキャッシュフロー(5億円-75億円×2%)、自己資金に対して14%(3.5億円÷25億円)の投資案件、更に80億円の借入れでは17%、85億円の借入れでは22%、90億円では実に32%となります。この例では、レバレッジが0%、70%、75%、80%、85%、90%のときの自己資本に対する収益率はそれぞれ、5%、12%、14%、17%、22%、32%となるのですが、レバレッジが85%を越えたあたりから収益率が急激に上昇するのがわかると思います。これは、投下する自己資本が少なくなるほど、収益率の計算における分母が小さくなるために生じる当然の結果なのですが、いずれの例においても全く同じ利回りの、全く同じリスクの、全く同じ不動産に投資しているという事実は変わりません。

競争の激しいマーケットで、10%の高利回り不動産のような投資案件を見つけてくることは、非常に難しいことですが、不動産を担保に借入れを起こすことは比較的容易です。このため、トレーディングビジネスにおいて、よい投資案件を見つけてくるよりも、高いレバレッジの借入れを行う方が収益に容易かつ圧倒的に寄与する、という大きな特徴があります。誇張でもなく、不動産投資のノウハウを持たず、より良い案件を取得する努力もそれほど払わずに平凡な資産を取得しても、この資産を担保に激しくレバレッジを掛けることができれば、誰でもが「一流」のファンドマネージャーになることができるのです。冷静に考えてみると、現在国際的なヘッジファンドの預かり資産は200兆円を超え、その多くが10~20%を超える利回りを達成していると推定されています(逆に、それだけの収益を生まなければ資金が集まらず、ファンドとして成り立ちません)。株式投資などを経験して相場の難しさを知っている人であれば、20%のリターンが神業のように感じられるかも知れませんが、これだけレバレッジをかけて自己投資を行えば、むしろ当然のリターンといって差し支えありません。1998年に破綻した前述のLTCMは、数年間続けて年率40%を超える運用収益を上げていましたが、5,000億円の自己資本に対して20~30倍のレバレッジをかけ、10兆円を超える資産を運用していたとされ、更に、約7,000件のデリバティブ取引の想定元本は150兆円に達していました。これだけのレバレッジがかかっていれば、年率40%の収益は少なすぎるくらいかも知れません。

はじめは知恵を絞って裁定機会を見い出し、創造的かつ低リスクで収益を上げていた投資銀行も、レバレッジを掛けることでいとも簡単に収益が上がるので、1990年代以降バランスシートを目いっぱい拡大し始めます。2007年末時点における、アメリカの主要投資銀行の、自己資本を1としたときの総資産(レバレッジ倍率)は、ゴールドマン・サックス26倍、モルガン・スタンレー33倍、破綻したベア・スターンズとリーマン・ブラザーズはそれぞれ34倍と31倍、バンカメリカに身売りがほぼ確定したメリル・リンチ32倍、これら投資銀行の平均自己資本比率は僅か3%程度という状態です。最も財務状態が良いとされていたゴールドマン・サックスを例に取っても、当社の自己資本は2003年の220億ドルから2007年の430億ドルまで、4年間で210億ドル増加し、同期間のレバレッジ倍率は19倍から26倍へ、バランスシートは4,000億ドル(44兆円)から1兆1,000億ドル(123兆円)へ、実に7,200億ドル(79兆円)拡大しました。税引き後の純利益の120億ドル(1.3兆円)は確かに大きな額ですし、自己資本に対して27%の利益率を確保していることから、その「成果」に対して、実に200億ドル(2.2兆円)、純収入の43%が従業員へ給与および報酬として支払われています(2006年に当社が全世界の従業員に一人当たり7,300万円、ブランクファインCEOに対して63億円の報酬を支払ったことは『次世代金融論《その4》』で述べました)。2003年の報酬額の合計は75億ドル(8,300億円)でしたので、レバレッジを急拡大すると同時に報酬額が大きく増加していることがわかります。しかし、123兆円の総投資額(総資産)に対して僅か1%、1.3兆円の利益を生み出すことが、どのような根拠でこれ程の評価に値するのかは理解に苦しむところです*(3)

更に、これもサブプライム危機をきっかけとして破綻に瀕しているアメリカの政府系住宅金融機関、ファニー・メイとフレディ・マックは、どんなにアグレッシブなヘッジファンドや投資銀行も及ばない前代未聞のレバレッジ構造を有しています。両社の2007年末の自己資本832億ドル(9.2兆円)に対して、債務の合計は5.2兆ドル(572兆円)、レバレッジ倍率は実に65倍、自己資本比率は僅か1.6%の財務構造でありながら、米国政府の信用力によって、AAAの格付けを有した社債を大量に発行することで、市場から低金利の資金をほぼ無尽蔵に調達してレバレッジをかけていました*(4)。投資銀行の事例と同様、これほどのレバレッジが可能であれば、誰がどのような経営をしても、どのような戦略で事業を行っても、・・・あるいは恐らく毎日昼寝をしていても・・・、自己資本に対して多額の利益を生み出すことは極めて容易といって差し支えないと思います。

レバレッジの麻薬
ゴールドマン・サックスは、1990年代以降急速に進行した金融のトレーディング化の流れに乗った申し子のような存在です。2007年度のゴールドマン・サックスの税前収益の部門別構成比率は、トレーディング収益132億ドル、投資銀行収益(かつての本業)26億ドル、アセット・マネジメント収益18億ドルであり、利益の75%はトレーディング ・・・いわば「借入れ業」・・・ によって生み出されています。トレーディングビジネスをいち早く重要視したゴールドマン・サックスは、現在の国際金融市場において、1990年代前半にとは比較にならない存在感を有するようになっています。

トレーディング/レバレッジが国際金融ビジネスの「主役」に躍り出た最大の理由は、結局それが「簡単に儲かる」からです。投資利回り僅か1%の平凡な投資を大量に実行し、そのポジションに思いっきりレバレッジをかけるだけで、僅か30,000人の従業員に対して合計2.2兆円の報酬を配分できるようなビジネスが他に存在するでしょうか。「容易に」「多額の利益」を得るビジネスを止めることは、誰にもできません。超資本主義社会が金融業に浸透する中、収益を生み出すために自己資本を使った裁定取引が始まり、投資銀行やヘッジファンド運用者などの金融専門家が際限のないレバレッジを「商売」にするまでの一連の流れは、競争原理が生み出す必然であり、これが更に進行すると、市場のボラティリティは増加の一途を辿り、クラッシュの規模と頻度が資本市場のシステム自体を崩壊させるまで際限なく拡大することが避けられないでしょう。現時点でもなお、全く底の見えない国際金融市場ですが、ひょっとしたら、このサブプライム危機は、まさにそのような崩壊のプロセスなのかもしれません。

専門性という退化
更に、レバレッジの麻薬による傷を非常に深くしている要因が、競争原理によって「磨かれた」「高度な金融技術」と、「エリート金融専門家」自身であり、彼らの「常識」そのものが、実は問題を生み出している最大の原因かも知れません。前述のゴールドマン・サックスの事例において、「金融のプロ」が駆使する数々の「先端金融技術」は、結局のところ123兆円の資金で僅か1.5兆円(1%)の利益を生むためのものに過ぎません。事業構造をありのままに解釈すると、「金融のプロ」の専門性は優れた資産運用や裁定の技術ではなく、お金を借りる技術(あるいは、更に皮肉に聞こえますが、自分の報酬を増加させる技術)にあると考えるべきで、社会的な効率をほとんど生み出していないかも知れないのです。

これは、僕が「金融工学のジレンマ」と呼んでいるもので、散々時間とコストとエネルギーを費やして高度かつ精緻に作り上げたものが、実は本質的にほとんど価値を生まない、という現象を称しています。「世界最強」と言われているゴールドマン・サックスが、あれほどの人材と、システムと、顧客と、情報力と、政治力を駆使して、国債利回り以下の収益しか生み出さないのはなぜでしょう?世界で最も「高度」なリスクマネジメント技術によって管理されている筈の米国金融機関が、世界最大の損失を被るのはなぜでしょう?最も優秀な人材を擁し、最もグローバルに展開し、最も競争力があると言われていたウォール街の投資銀行がことごとく(実質的に)破綻し、中国やアラブから資本をかき集めなければ存続し得ない事態に追い込まれているのはなぜでしょう? ・・・これらの現象を素直に解釈すると、「高度」な「専門性」を有する「プロ」は、そもそも金融的な付加価値を生み出していない、と考えた方が辻褄が合うのです(自分の所得を増やす、と言う付加価値は効率よく生み出していると思います)。

『地方銀行に勤める地方君は100億円の不動産を担保に70%のローンを貸付けて運用する案件の稟議を書いていました。ウォール街の投資銀行で活躍するプロ君は、地方君の仕事ぶりを見て、なんて非効率で原始的な仕事をしているのだろうと呆れます。プロ君は得意の金融技術を駆使し、数量分析によって相関係数の低い資産をミックスするなどしてリスクを「減じ」、大量のローンプールを組成するなどしてクレジットリスクを分散し、高いレバレッジをかけることで自己資金を圧縮しながら多額の融資を実行し、同じ不動産を担保に、95%の投融資を実行します。プロ君は顧客に対して、この最先端の投融資は、高度な商品技術を駆使し、95%の投融資にも拘らず「A」格の信用力が付与され、従来の古臭くて単純な70%の投融資よりも投資家ニーズに合い、流動性が高く、投資リスクも十分に「抑えられている」と説明します。地方君は、難しい金融技術を学んだことがないので、プロ君の説明に圧倒されますが、本心では、同じ不動産を担保にした投融資ならば、70%のローンの方が簡単だし、わかり易いし、何よりもよほど安全ではないかとぼんやり考えています。しかし、理論派のプロ君にはとても反論できずに黙っていると、上司からはもう少しプロ君のように勉強しなさい、と注意されます。』

この挿話において、プロ君は、原資産である100億円の不動産担保の価値や信用力には全く変化がないにも拘らず、地方君が融資する70%の債権と自分がアレンジした95%の債権のリスクが同等だと投資家を説得することができる「専門家」です。その根拠は、この業界での長年の経験と、先端的な「金融工学」の技術によるものとされ、「合理的」な理論と分析に裏づけされています。金融工学が本当に「リスクを減じている」のであれば、70%の債権をより低リスクで商品化できそうなものですが、このような金融技術の大半はレバレッジ、特に限界的な高レバレッジの増加を伴います。一見複雑な金融技術の本質は、この冗談のような挿話そのものであり、95%の債権を70%のリスクとして販売しているに過ぎません。両者の差額の25%は空気を売るようなものですので、レバレッジを商売にする投資銀行が超高収益になるのは当然でしょう。別の表現では、前述の通り、70%前後を越える限界的なレバレッジは等比級数的な利益の増加を生み出す性質がありますが、投資銀行はその差額の大半を顧客に還元せずに収益化することによって、巨額の利益に変えているのです。これが、レバレッジを利益に還元する基本的な原理です。そして、この差額の「25%」は資本主義社会と金融市場に組み込まれたバブルとして、いつか必ずはじける運命にあるのです。

以上の議論を振り返ると、競争原理が専門技術の向上をもたらし、それが社会的な効率を生み出す、という「常識」は甚だ疑わしいものであることがわかります。競争原理が社会と市場に導入されることで金融技術が「高度化」するのは事実かもしれませんが、この技術は社会的な効率を生み出す目的として利用されるよりも、レバレッジを生み出すために利用されます。それはレバレッジが容易に収益になるからで、超資本主義の社会において、「容易に」「多額の」利益を生み出すことに抗することができるものは誰もいません。資本主義社会では、競争原理によって専門技術が高度化するほど、金融市場におけるレバレッジの創造が優先され、社会的な効率を低下させながら必然的にバブルが生じるというメカニズム、・・・すなわち自己崩壊のしくみが内包されているように思えるのです。

【2008.10.4 樋口耕太郎】

*(1) 実際の証券化におけるストラクチャリングや金利計算などは、ここに例示した事例よりも相当複雑ではありますが、基本的な原理は同じといって差し支えないと思います。

*(2) ここでは、債権の裁定取引にかかるヘッジコスト、証券化と販売費用、レポ取引にかかる金利、手数料、取引費用その他様々な諸経費は無視して計算していますので、実際の利益率はもっと低くなります。更に法人全体では、高額な人件費やその他販管費、本社経費、法人税などを差し引き、自己資本利益率は15%~20%程度に落ち着くイメージです。

*(3) ゴールドマン・サックスはまだ程度の良い方かもしれません。次に状態が良いと言われているモルガン・スタンレーを例に取ると、当社の自己資本は2003年の250億ドルから2007年の310億ドルまで、4年間で64億ドル増加しましたが、同期間のレバレッジ倍率は24倍から33倍へ、バランスシートは6,000億ドル(66兆円)から1兆ドル(115兆円)へ4,400億ドル(49兆円)拡大しました。税引き後の純利益の32億ドル(3,500億円)は自己資本に対して9%の利益率ですが、その「成果」に対して、純収入の60%が従業員に支払われ(2003年のこの比率は45%でした)、2007年、ジョン・マックCEOは4,100万ドルの報酬を得ました。3,500億円の利益は115兆円の総投資額に対して僅か0.3%に過ぎません。

以上は、“Why No Outrage?” by James Grant, Wall Street Journal, July 19, 2008、ゴールドマン・サックス社 2007年度年次報告書、モルガン・スタンレー社 2007年度年次報告書、を参照しています。

*(4) “Fannie Mae and Freddie Mac: End of Illusions” The Economist, July 17, 2008.

資本主義の第二の幻想、「競争原理が社会の効率を高める」、についてのここまでの議論をまとめます。1970年代以降、先進国の潮流となった超資本主義の社会では、技術革新、グローバル化、規制緩和が事業の新規参入を容易にし、企業間の激しい競争が引き起こされたため、大企業や規制業種の優位性が減少し、基幹産業や新しい産業の別なく、安定的な企業収益を生み出すことが事実上不可能になりました。資本調達にも競争原理が働き、株主の力が高まり、「会社は株主のもの」という価値観が浸透し、経営者に対するプレッシャーが増大します。経営者に対しては、収益を第一に追求するよう、株主から飴と鞭が与えられ、短期間で収益を上げることができなれば容赦なく解雇される半面、株主に利益をもたらす、ごく少数の「成功者」に対しては、莫大な報酬が支払われるようになります。価格競争が進み、商品価格への支配力を失った企業は、単価を上げる(あるいは維持する)ことができなくなります。この環境下で株主が納得する利益率を確保するためには、商品の販売量を拡大するか、費用を削減する以外に方法がなくなります。新たな市場を開拓することは時間もコストもかかりますし、市場サイクルが短期化して投下資本の回収リスクが高いため、利益を捻出するために、最も容易な方法が費用の削減となります*(1)

多くの企業において、人件費は突出して最大の費用であるため、利益を大量に捻出する原資としては最も「適当」です。買収の対象となった企業や、ファンドが経営権を取得した企業では、ほぼ例外なく人件費が見直されます。日本においては、バブル崩壊以降の平成不況が、聖域だった雇用に手をつける大義名分を経営者に与え、終身雇用が急速に失われると同時に、人材派遣会社が大いに業績を伸ばします。正社員が派遣社員に置き換えられ、残った正社員に対しては「成果主義」人事制度が導入されますが、多くの場合、この制度の導入目的は総額における人件費削減でした。以上の結果、雇用は不安定になり、給与が大幅に減少し、家計収入を補うために夫婦共働きが余儀なくされ、家庭教育や人間関係が希薄化し、中産階級が崩壊し、社会の格差が拡大するなどの問題が生じています。

超資本主義の金融
競争原理が社会の潮流となったことで、先進国社会の大半の労働者の所得は大幅に減少するのですが、例外的に、一部の経営者や金融専門家に関しては、所得と資産が著しく増加し続けています。超資本主義の競争原理は金融業*(2)にも例外なく浸透し、例えば株式売買手数料自由化によって、インターネット証券での取引が個人投資家の間で主流となり、大手証券会社の株式売買手数料部門における利益率は大きく減少しています。それにも関わらず、全労働者の中で、特に金融専門家の年収だけが爆発的に増加する現象はどのように説明できるのでしょう?競争原理の浸透によって、年収が激減する仕事と激増する仕事。両者の違いは何によって生じているのでしょうか?これらの問いは、超資本主義の金融的側面を明らかにし、特に1995年以降の国際金融の変容を説明する重要な鍵となります。

アメリカの1990年代は、激しい競争を伴う超資本主義的事業環境で十分な収益を確保する殆ど唯一の方法は、(広義の)トレーディング*(3)であるということが、金融専門家、そして一部の事業家の間で確信となった時期だと思います。不良債権投資・回収、LBO、ヘッジファンド、M&A、マーチャントバンキング、プライベートエクイティ、ベンチャーキャピタル、そしてその後のサブプライム危機に繋がるローントレーディング、レバレッジや簿外投資、資産の証券化、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)などの「先端」金融は、その見かけはどうあれ、その本質はトレーディング事業であり、この流れを洞察して戦略的な経営資源の再配分を行ったか否かが、超資本主義における「勝者」と「敗者」を別つ最大の要素になりました。超資本主義的事業環境において、労働分配率と事業収益の増加を両立し得る(少なくとも一定期間において)唯一の選択が、トレーディング事業でした。この意味で、金融事業のトレーディング化は、超資本主義的な社会変容に伴う、金融専門家の必然的な選択であるのですが、事業のトレーディング化の行き着く先が、資本主義そのものを自壊させるメカニズムとして機能するであろう、というのが本稿の重要な趣旨のひとつでもあります。詳細は後述します。

トレーディング化する金融
アメリカでは1975年に株式売買手数料が自由化されましたが(イギリスでは1986年10月から)、インターネットが社会に普及し、ネット証券が台頭し始めた1990年代前半(1996年8月、E*TRADE証券が上場しています)から手数料が本格的に下がり、大手投資銀行(証券会社)は重要な収益源を失います。今でこそ、自己資金を投下した広義トレーディング事業は投資銀行の花形部門のひとつですが、当時は、自らは殆どリスクを取らず、他人のお金を使ってお金を儲ける者が賢いプロの金融マン、と考えられていましたので、積極的に自己投資を始めたと言うよりは、失った利益を埋め合わせるために、已むに已まれず、というニュアンスではなかったでしょうか。

この動きを後押しした最大の要素は、商業不動産市場のクラッシュだったと思います。大手証券会社の仲介手数料収入の減少とおおよそ時を同じくして、1980年代後半から1990年代前半にかけて、アメリカでは商業不動産バブルが崩壊し、(当時)大恐慌以来といわれた不動産大不況に見舞われます。大手銀行は不良債権にまみれ、実質的に新規の融資機能が停止し、1980年代後半に「ジャパンマネー」として一世を風靡した日系金融機関はアメリカ不動産投資で大火傷を負い、1980年代以降の金融自由化などの影響が重なって、S&Lと呼ばれる中小金融機関(Savings and Loan Association:貯蓄貸付組合)が数百社単位で破綻する大問題になります。破綻したS&Lなどが保有していた不良債権を引き継ぎ、処分(売却)するために、RTC(Resolution Trust Corporation:整理信託公社)が設立され、大量の不良債権が額面に対して大幅なディスカウントで市場に放出されます。RTCは売却価格にこだわらず、「売れる値段が時価」、「できるだけ短期間で売却」という原則で不良債権をどんどん売却したため、不良債権を取得した投資家は例外なく多額の利益を享受しました。短期間で大量に売却するための工夫として、不動産担保証券(CMBS:Commercial Mortgage Backed Securities)の開発が進み、格付機関がストラクチャードファイナンス(証券化)ビジネスを積極化するなど、市場の参加者が一挙に増えたのです。

伝統的にリスクを嫌ってきた投資銀行といえども、このような絶好の収益機会を見逃すことは流石にできなかったようです。しかし、始めはおっかなびっくりで、例えば、ゴールドマンサックスが1991年に設立した不動産・不良債権ファンド、ホワイトホールは、今でこそ5,000億円を超える巨大ファンドですが、第一号は僅か200億円足らず。当時は単独事業ですらなく、その時点で10年以上不良債権に関わりがあり、不良債権回収の最大手であったJE.Robert Companyらとの合弁で始まっています。メリルリンチも、アメリカで最も有名な不動産/不良債権投資家、サミュエル・ゼル氏との合弁で、「Zell/Merrill Lynch Real Estate Opportunity Partners」を設立して不良債権などへの自己投資事業に参入しています。投資銀行がひとたび自己資本を投下したトレーディング事業を体験すると、いとも「簡単に」多額の収益を生み出すことが可能だということに気が付きます。特に、競争が激しくなる一方の、顧客相手の仲介ビジネスと比較すると、投下する労力に対する収益が破格に異なります。かくして、他人のお金で儲けるのがクールであった時代は終わりを告げ、1990年代以降、大量の自己資本を投下するプリンシパル・ビジネスが、一躍投資銀行の花形となるのです。

パンドラの箱
トレーディングの特徴は、…冗談ぽく聞こえますが…、儲かるときにはとにかく儲かる、ということでしょう。例えば、5%の利回りで投資物件を探している顧客がいたとします。10%の利回りで3億円の不動産を買い付けると同時に、5%の利回り、すなわち6億円でこの顧客に売却すると、3億円のトレーディング利益が生まれます(こう書くと、難しそうに聞こえますが、単に、3億円で買ってきたものを6億円で売る、という意味です)。同様の利益を仲介業務で稼ごうと思えば、手数料が3%としても100億円の大型取引を成立させなければなりません。3億円の自己売買取引と100億円の仲介取引では、物件に対するコントロール、対象顧客を得るまでの営業量と費用、営業をサポートするバックオフィスの能力、物件調査・市場調査などの精度と量、顧客への説明内容と段取り、契約書の複雑さと作成費用、顧客の資金調達の手間隙などにおいて、事業効率が格段に異なります。…要は、労少なくして、短時間で、驚くほどの収益を上げることが可能なのです(反面、トレーディングはある意味、パンドラの箱のようなものです。超資本主義の激しい競争環境で、これだけ容易に多額の利益を生む代替事業は稀であるため、市場の転換点でスムーズに撤退することは、収益的にも社内政治的にも不可能に近いと言えるほど困難です)。

トレーディングのメカニズム
投資銀行のトレーディングビジネスは多岐にわたり、「高度」な専門性を要するとされていて必要以上に複雑に見えますが、そのメカニズムを突き詰めて考えると、以下の3つの要素(とその組み合わせ)に収斂するように思います。反対に、超資本主義環境下の金融事業は、以下の3つが機能しなければ成り立たなくなっている状態です。一般に、市場の成熟と競争の増加に伴って、①~③の順に事業が変化する傾向があるのですが、この順番に事業リスクも急激に上昇し、最後にはクラッシュを迎える、というパターンを何度も繰り返す傾向が生じています。

①裁定
②レバレッジ
③請求権の拡大

裁定取引
投資銀行のトレーディングビジネスが、例えば単純な株式売買などと異なり、少なくとも一定の条件下において、ほぼ確実に利益を生み出すことができるのは、それが裁定(さいてい)取引であるためです。裁定取引とは、本来同等の価値を有する資産が、異なる状況において、異なる価格で売買可能であるとき、この資産を割安な価格で買うと同時に割高な価格で売却することによって、リスクを殆どとらずに利益を実現する手法です。この考え方はシンプルかつ汎用性があり、もともと金融に限った概念ではありません。大航海時代の商人が東インドやスマトラ島で買い付けた胡椒を西洋で売却して大きな利益を得たのも、西麻布の家具屋さんがインドネシアに家具を買い付けに行くのもこの原理によるもので、世の中には裁定機会が溢れています。裁定取引であることの特徴は、「買ってから売ろうとするのではなく」、「売れるものを買う」ということでしょう。6億円で売れると分かっているものを3億円で買ってくれば確実に利益になる、という単純な理屈です。「利は入りにあり」と言われますが、売るときに利益が確定するのが通常の売買、買うときに利益が確定しているものが裁定取引ということもできます。

ただし、単純な取引では裁定が働き、すぐに利益が生じない状態に価格が変動してしまうため、一定期間一定以上の収益を確保し事業化するためには、性質が大きく異なる二つの市場間の裁定を行うなどの工夫が必要で、このような複数市場間の裁定を目的として発達したのが証券化の技術です。例えば、1990年代の前半まで、アメリカの商業不動産市場と証券市場は全く分離した二つの市場でした。この時期、アメリカの商業不動産市場は大不況に見舞われ、不動産価格がピーク時の半値程度まで暴落します。一般的な不動産所有者は、投資額の70%~80%程度を銀行からの借り入れによって賄っていましたので、多くの所有者が破綻し、銀行は大量の不良債権処理に追われ、新たな貸付や借換に対応することが全くできなくなりました。シティバンクが破綻に瀕し、アラブのアルワリード王子の出資によって辛うじて生きながらえたのもこの頃です*(4)。担保余力の残っている一部の不動産所有者がローンの借換を行おうとしても、銀行は商業不動産市場から全面撤退中で、商業不動産市場は深刻な資金不足に陥っていました。もしこの裁定機会を理解し、自己資金に多少の余裕がある投資銀行がこの市場に存在すれば、安全な担保を取りながら利幅の厚い商業不動産担保ローンを貸し付けることは比較的容易でした。この機会を捉えて急成長を遂げ、ほぼ独占的な不動産証券化のフランチャイズを生み出したのが、ウォール街ではほぼ無名の弱小「外資系」証券だった米国野村證券不動産ファイナンス部門でした。1993年に僅か50億円程度の割り当て自己資金と7人の社員で始めたビジネスが、5年後の1998年のクラッシュ直前には、毎月1,000億円のファイナンスを実行し、450人の大部隊を擁し、年間600億円の利益を生み出す圧倒的な稼ぎ頭に成長します*(5)。商業不動産市場でこのようなローンを大量に実行して証券化するということは、金余りの(お金の価値の低い)証券市場から、お金不足の(お金の価値が高い)商業不動産市場へ資金を大量に流し込むことであり、ウォール街の投資銀行が広大な商業不動産市場を獲得した瞬間であり、実質的に同じ価値のローン資産を、割安な債権市場で「買い」、割高な債券市場で「売る」、裁定取引の実現を意味します(不動産担保融資の営業部門と証券化機能を有しながら、当時の不動産証券化が「ローントレーディング」ビジネスに分類されていたのは、このような理由によります)。

結局、商業不動産担保証券(CMBS)市場の裁定機会は1993年から1998年まで約5年間継続しました。ソロモンブラザーズのモーゲージ証券(1980年代前半)、ドレクセル・バーナム・ランベール証券のジャンクボンド(1980年代後半)、RTCを中心とした不良債権の大量処理と証券化(1980年代後半から1990年代前半)、ベンチャーファイナンスとインターネットバブル(2000年代前半)、住宅ローン証券化とサブプライム危機(2000年代)など、1980年代以降、アメリカの金融市場におけるバブルの発生と裁定機会は驚くほどの回数に上りますが、それぞれの隆盛と崩壊のサイクルはいずれも大方5年±α というイメージです。

【2008.9.5 樋口耕太郎】

*(1) 当たり前のように聞こえますが、売上から費用を差し引いたものが企業の利益ですので、苦労して売上を増やしてもそこから費用を差し引いた残りの部分しか利益になりませんが、費用を削減すると、削減した金額がそのまま企業の利益になるという単純な原理が働きます。このため、短期間で利益を確保する必要のある経営者は、一般に費用の削減を好みます。

*(2) 本稿で「金融」と表現する場合、広義の投資銀行事業を示しています。超資本主義を象徴し、金融のトレーディング的な変容を遂げ、国際金融に大きな影響を与え、社会経済の生態系分析に最も重要だと考えられるためです。

*(3) 本稿における「広義トレーディング」とは、自己勘定取引という、単に形式的な概念ではなく、顧客に対して買い向かう裁定取引を示します。この意味では、例えばノンバンク事業は、自己勘定ではありながら、銀行資金のリテール顧客への仲介業と考える方が実態に即していると思います。また、トレーディングという言葉のニュアンスから、証券などの頻繁な売り買いが連想されがちですが、自己勘定による裁定取引(広義トレーディング)の概念では、例えば、ローンを融資(経済的に「買い」)し、証券化(経済的に「売却」)する事業、ファンドのお金で不動産を買い集めて(「買い」)、一つの会社として上場する(「売り」)事業、上場会社を買収し(「買い」)5年間後に再上場(「売り」)するなど、長期的かつ事業的な資産売買を含みます。一般的な事業経営と見かけが似てきますが、トレーディングである以上、必ず買う行為と売る行為が存在することが決定的な相違点でしょう。

*(4) シティグループは、サブプライム危機においても破綻に瀕していますので、20年足らずの間に2度、実質的に破綻したことになります。これは本稿の趣旨でもありますが、それほど国際金融市場は不安定になっていると言えるのです。

*(5) 米国野村證券の不動産ファイナンス部門を率いたのが、当時30歳になったばかりのモルガン・スタンレー出身の債券トレーダー、イーサン・ペナー氏(Ethan Penner)でした。不動産ファイナンス部門は、全世界の野村證券の利益の約半分を生み出していた時期もあり、危なっかしいほどの勢いがありました(実際1998年のモーゲージ市場のクラッシュで、部隊は壊滅状態になります)。毎年リゾートを借り切って、1,000人規模の顧客・従業員とその家族を招待してコンファレンス兼パーティを開催し、趣を凝らしたディナーの後のエンターテイメントには、ダイアナロス、ボブディラン、ロッドスチュワート、イーグルスなどのミュージシャンが演奏を行いました。当時の米国野村證券は、完全な現地化戦略に転換し、自己資金をフル稼働させたトレーディングビジネスに大きく舵を切り、経営陣から末端に到るまでアメリカの会社以上に米国的で、日本人社員は全従業員の4%以下でした。当時の不動産ファイナンス部隊の大躍進と崩壊に到るまでの顛末は、僕が知る限りにおいてこちら(英文)が最も詳しい資料だと思います。

前稿、競争原理がもたらした社会(次世代金融論《その6》)について、補足すべきことが四点あります。第一に、前述の通り、競争原理は必ずしも社会効率を高めないのですが、だからと言って、競争原理が「悪」であるとも限りません。消費者としての我々が多様なサービスを安価に利用できるのも、インターネットを通じて膨大な情報を検索・送受信できるのも、新しい事業にどんどん挑戦できるのも、明らかに競争原理がもたらした恩恵です。同様に、アメリカの40年~50年代に象徴されるような規制社会が今よりも好ましいという意味でもありません。その時代には確かに十分な収入と安定した職場が保障されていたかもしれませんが、硬直的な人事組織、能力や人間性が考慮されにくい社会の序列、個人の自由よりも優先される組織の方針、創造性よりも安定性が求められる社会には弊害も少なくありません。

さらに、「世界経済の生態系」にまで視点を広げると、先進国での競争原理の浸透が、全く別の役割を果たしていることが分かります。先進国社会のスピードと流動性が高まり、雇用が不安定になり、労働分配率が激減し、中産階級が崩壊し、著しく格差が拡大する一連の過程の裏側で、先進国のグローバル企業はサプライチェーン(≒仕入れ)の相当部分を、相対的に費用の安い中国、インド、ラテンアメリカを始め、世界中の発展途上国にアウトソースしました。これが世界経済に人類史上かつてあり得なかった規模の成果を生み出します・・・世界中が豊かになり始めたのです。過去15年間で世界経済の規模は2倍以上に拡大して54兆ドルに迫り、同時期の世界貿易は133%伸びました。超資本主義が世界に提供するサプライチェーンは、発展途上国に莫大な利益をもたらすと同時に、消費財の価格を継続的に低下させ、低インフレと経済成長が、恐らく経済史上初めて両立します。この20年ほど、おおむね適切だったと言えそうな金融・通貨政策の効果も加わり、トルコ、ブラジル、インドネシアまで多くの国々を苦しめてきたハイパーインフレがおおむね収束しました。・・・以上の成果として、世界の貧困は今まで人類が経験し得なかった範囲とスピードで激減しています。世界人口の8割を占める国々で貧困が減り、1981年の時点で、地球上の全人口の40%を占めていた世界の貧困層(1日1ドル以下で生活する人たち)が、2004年には14%に低下し、2015年までには12%へ下がるとみられています。今まで「援助」や「支援」の名の元に、多くの人々が散々時間と費用をかけて達成し得なかったことを、超資本主義がわずか20年間で実現してしまったのです。もちろん、貧困問題は完全に解決したわけではありません。特に50の最貧国に住む、世界の最底辺の10億人は、今でも深刻な状態です。しかし、世界全体では、かつてなく希望が持てる状況になっています。

また、超資本主義は、先進国において、過去、いかなる政治も人権運動も成し得なかった均等社会を、短期間で生み出しつつあるという効果があります。激烈な競争環境におかれた企業では、能力以外の理由で従業員を差別するゆとりがなくなったためです。人種、民族、男女差別は、企業と経営者にとって大きなコストを伴う「ぜいたく」な行為となり、アメリカでは教育水準の高い黒人やヒスパニックの多くがアメリカの中流階級へと上昇し、さらにその一部は上流階級へと移動しました。同様に、女性たちも専門職や管理職の地位へと上がってきています*(1)

第二に、競争原理と超資本主義によって、著しい格差、雇用不安、地域社会の不安定化、環境悪化などの様々な、そして中には非常に深刻な社会的弊害が生じているのですが、本稿の議論の目的はその原因となる「悪玉」を見つけることではありません。・・・賃金を極限まで削るウォルマート、利益のために消費者の健康を害するマクドナルド、四半期決算に戦々恐々として従業員を省みない経営者、会社の解体と従業員の大量解雇を事業計画に盛り込むファンド、資本市場の公共性を気にも留めない投資銀行、ウォール街の意向を無視できない政治家、アメリカの意向を無視できない日本の政治家などなど・・・。怒りの矛先を向けたくなる対象は世の中には多く存在しますが、社会の生態系全体で考えると、それぞれの「悪玉」も、超資本主義社会の大きな潮流に適用するために、それぞれの選択をせざるを得ない事情があると考えるべきでしょう。

社会で何か大きな問題が生じるたびに、「悪玉」が特定され、これに制裁を加えることで、問題「解決」とされることが少なくありません。しかし、例えばウォルマートやマクドナルドや市場原理至上主義の政治家など、分かりやすい「悪玉」をスケープゴートとして批判し、(恐らく長い闘争の末に)仮に何らかの規制や罰則を適用することができたとしても、このような制裁は、せいぜい社会のガス抜きに役立つか、良くて小さな問題の対症療法に過ぎず、社会の生態系の根本的な問題解決には殆ど効果がありません*(2)。大きな問題の原因を明らかにして、根源的な治癒を行うためには、現実を直視した現状認識と、社会生態系への理解が何よりも重要であり、これが本稿のアプローチです。現状認識の過程で事実を明らかにするプロセスは、誰かへの痛烈な批判と解釈されてしまうこともあるのですが、それは本稿の意図とするものではないのです。

第三に、ライシュ教授の超資本主義モデルを利用すると、多くの、一見不可解な経済現象(特に、ニューエコノミーと呼ばれた現象)がうまく説明できるように思います。例えば、従来の経済理論によれば、失業率が一定水準以下になると、インフレを併発する筈なのですが、過去20年間の日米マクロ経済においては、このセオリーが当てはまりませんでした。なぜ日本の金利が一向に上がらないのか、経済成長が進行しながら物価が下がり続ける原因はなにか、一般国民が最近までの好景気を殆ど実感できないのはなぜか、などの問いについても同様です*(3)

第四に、超資本主義と経済のグローバリゼーションが、世界中から貧困を激減させ、人種差別や偏見を減らし、より平等な男女関係を社会にもたらしたという事実は、経済が、社会の質を高め、人間関係を改善する、という機能を持つことを示唆しています。このような機能をなんと呼ぶべきか迷いますが、家庭における社会教育機能であり、道徳的規範の推進機能であり、ある種の政治機能であり、宗教が果たす機能の一部でもあるでしょう。経済の目的は、「社会と人を物質的に豊かにすること」とするのが、「常識」なのかも知れませんが、そのような認識は経済の(潜在)機能を、したがって、企業と経営者の社会的機能を、著しく矮小化している可能性があるのです。

そして、特筆すべきは経済がもたらす社会変革の効率の高さでしょう。過去20年間で生じた貧困や社会的偏見の解消を、援助活動や社会運動や政治・外交などによって達成しようすると、どれほどのエネルギーが必要とされるかを想像するだけで、そのパワーをイメージすることができます。ずいぶん昔から、なぜ大学では政治と経済を一緒の学部で教えるのだろうか、と不思議に思っていたのですが、ひょっとしたら、先人がこのような経済の本質を学術的な分類に反映したためかも知れません。

【2008.8.16 樋口耕太郎】

*(1) 本稿のその他のセクションも含めて、 Fareed Zakaria, “The Post-American World (邦訳未刊), W.W.Norton & Co., 2008.4.、 ロバート・ライシュ著『暴走する資本主義』、雨宮寛・今井章子訳、2008年6月、東洋経済新報社(原題:Supercapitalizm: The transformation of business, democracy, and everyday life)、 ロバート・ライシュ著『アメリカは正気を取り戻せるか』、石塚雅彦訳、2004年11月、東洋経済新報社(原題: Reason: Why reberals will win the battle for America)、 ロバート・ライシュ著『勝者の代償』、清家篤訳、2002年7月、東洋経済新報社(原題: The Future of Sucess: Working and living in the new economy)、を参照しています。

このような社会の良い側面もまた、別の問題の原因となっています。世界経済がグローバル化し、貧困が激減し、発展途上国が急速な経済成長を遂げたことによって環境問題が深刻化し、世界の穀物・食糧相場、原油価格が高騰しています。更に、貧困の絶対数は減少しているかも知れませんが、過去30年間の世界の格差は拡大しているという事実があります。この間、世界経済は年2.3%成長していますが、経済的に最も富める国と貧しい国との格差は30年前の10倍になっています。・・・生態系のすべての要素は他の要素に影響を及ぼす存在であり、いかなる要素も独立し得ません。生態系は「すべてでひとつ」なのです。

*(2) 社会の生態系をより良いバランスに導く作業において、「悪玉」成敗は重要事項ではありませんが、だからと言って、「悪玉」がしばしば犯す反倫理的、反同義的、反社会的な行為を見逃しても構わない、ということにはなりません。

*(3) なお、彼の理論に加えて、企業が目先の利益を最優先しがちな超資本主義環境において、食料品・加工食品などに関する物価下落の要因は、添加物の大量利用、農業の化学化による「生産効率」の向上と、商品の実質的な質の低下が大きく寄与しているのではないか、と個人的に疑っています。食品の質を大幅に落とすことで価格も下がりますが、質の低下は物価に反映されにくいためです。

資本主義の第二の幻想は、「競争原理が社会の効率を高める」、という「常識」です。先進国における競争原理の浸透は、70年代に芽生え、マーガレット・サッチャー、ロナルド・レーガンの政策を経て、80年代以降現在に至るまで、社会の基本潮流となりました。競争原理から派生した、「規制緩和」「民営化」「グローバル化」「市場メカニズム活用」の基本的な考え方は、規制に守られて硬直化した組織や事業に、競争原理と市場メカニズムを導入し、事業の運営効率と生産性を高め、商品やサービスの価格を下げ、消費者にとっての利便性を高め、利用者を増やすことで総合的な収益を増加させるという考え方に基づくものです。実際、世の中の大半の商品・サービスは性能を高めながら大幅に価格が低下し*(1)、同時に企業収益は爆発的と言っていいほどの成長を遂げたため*(2)、競争原理が社会で有効に機能しているという「常識」が定着しています。

しかしながら、社会の生態系全体で見ると、競争原理によって著しく向上した企業の「生産性」「利益率」「低価格」の大部分は、激しい競争に勝ち残るために企業経営者が労働分配率を大幅に削減したことの結果であるということが、認識され始めています。その良し悪しは別にして、社会における競争原理の浸透が、労働者の所得を激減させ、雇用を不安定にし、中産階級を破壊し、格差社会を生んだ最大の原因である可能性があるのです。

確かに、人件費を削ることによる企業収益への寄与度は莫大です。大掴みに推定すると、一般的な企業における人件費は、総費用の70%程度ですが、売上高利益率5%の企業が10年間で人件費を30%(総費用の約20%)削減すると、企業利益が約4倍になるほどのインパクトが生じる計算になります。アメリカのダウ平均は、1990年代に約3,000ドルから11,000ドルまで4倍弱上昇していますが、結局のところ、90年代以降の株式ブームを含め、70年代以降の「経済成長」と好調な企業収益はこのようにして生み出されていた可能性があるのです。

競争原理の衝撃
世の中では、競争原理の良い側面ばかりが強調されているため、競争原理が企業経営に与える強烈なインパクトがあまりにも過小評価されているという印象を受けます。個人的な事例では、事業戦略を構築する際、僕は「非競合である」ことを何よりも優先しているのですが(2006年度事業報告の3~4ページ、「事業戦略」の項を参照ください)、それは、競合することが事業効率を何よりも低下させるという事実の裏返しでもあります。例えば、投資案件において、競合状態でなされる入札は、競合のない状態に比べて、競争相手が10倍、入札価格が少なくとも2割増、利益率がざっと50%減少するイメージです。このような競合環境において非競合投資案件と同等の利益を確保するためには、半分の利益率の案件を10倍こなす必要が生じるため、事業効率はざっと20倍の差があるというのが僕の実感です。どんな企業であっても、単価と売上の増加によって、生産性をいきなり20倍にすることは事実上不可能ですので、企業が他社と競合するためには、これに見合うだけの費用を削減して収益の帳尻を合わせる必要が生じます。大半の事業における最大費用は人件費であるため、これが最大の削減対象となります。「無駄な」従業員をどんどん減らしながら、一人当たりの給与額も削られ、一人当たりの業務量が等比級数的に増加する、という循環を生み出しています(…社員の鬱や無気力が大きな社会問題になりつつありますが、この問題を突き詰めて考えると、競争原理に基づく社会構造に起因しているのではないかと思います)。

短期的な数々の個別事例は別にして、長い目で見た事業の本質は、要は、「競争したら商売にならない」のです。例えば、しばしば談合が指摘されている建設業界ですが(談合の違法性や、同義的な問題は敢えて横において)、これほど何度も社会的に問題視されていながら、(実質的な)談合が決してなくならない根本の理由は、それがモラルや遵法性の問題ではなく、競争原理がもたらす市場原理の基本構造によるからかも知れません。談合の違法性を盾にとって当事者を非難することは簡単ですが、この問題について、対症療法ではなく、根本的に治癒することを政策担当者が希望するのであれば、社会の生態系のバランスを変える以外に方法はないのです。

崩壊する中産階級
アメリカで、競争原理が浸透する前後の社会をそれぞれ象徴する代表企業は、GM(ゼネラル・モーターズ)とウォルマートでしょう。1950・60年代、GMはどこよりも高い収益を上げ、アメリカで最も多くの従業員を雇用する企業でした。GMが労働者に対して安定的に支払っていた額は、現在の金銭価値で年間約60,000ドル(約650万円)でした。これに対して、しばしば格差社会の象徴的存在として悪玉扱いされているウォルマートが現在従業員に支払う金額は、17,500ドル(約200万円)、時給にして10ドル弱に過ぎません。福利厚生もわずかで、年金保障もなく、健康保険手当ても雀の涙です。医療保険対象者を減らすためにパートタイム従業員を増やし、長期雇用の従業員が賃上げの対象にならないよう、賃金に上限を設けるなどの対処を怠りません。更に、ウォルマートは、仕入れ業者に対して、サプライチェーンのためのコスト削減を徹底的に要求することで有名ですが、これは実質的に、米国内外で仕入れ業者各社のために働いている何百万人もの従業員の賃金・福利厚生を削ることを要求していることになります。それでも対応しきれない仕入れ業者は、中国、東南アジア、メキシコなどの下請けに仕事を出さざるを得ず、また、人間をコンピューターやソフトウェアに置き換える必要が生じます(ロバート・ライシュ著『暴走する資本主義』参照)。

このような社会全体の変容の結果として、現在のアメリカでは、全労働人口のほぼ30%が時給8ドル以下で働く格差社会構造が生まれ、かつて世界中の羨望の的であった米国の中産階級が壊滅したことは前に述べました(さらに象徴的なデータとしては、ビル・ゲイツ単独の純資産6兆8,000億円は、下から半分までのアメリカ全世帯の純資産に等しいのです)。インフレ調整後の数値で見ると、アメリカの労働者の平均時給は1973年にピークに達し、その後25年間下がり続けています。象徴的に表現すると、一般的な労働者の年間賃金が60,000ドル(GMの事例)から20,000ドル以下(ウォルマートの事例)に落ち込む過程で、アメリカの中産階級は共働きを余儀なくされ、専業主婦が激減し、社会の最小単位としての家庭の人間関係が希薄化します。この間、記録的な数の女性が労働人口に加わりましたが、これは男女同権論に突き動かされてと言うよりは、生活費を捻出する必要に駆られてというのが主な理由でしょう。1975年のアメリカでは、幼い子供を抱えた母親の約3分の1が外で働いていましたが、現在では、約3分の2が就業しています。核家族夫婦が子供を育てながら共働きをする生活は容易ではありません。消費財が溢れていることを幸いに、電子レンジで温めるだけの、いわゆるTVディナーやジャンクフードが食卓の主役となり、栄養素がなくてカロリーの高い、添加物だらけの食生活が一般化します*(3)。更に年収が下がってくると、夫婦の年収を合わせても生活がままならなくなり始め、これに「対処」するために、将来の収入を取り崩し始めます。金融の「進歩」によって生み出された数々の金融商品、クレジットカード、カードローン、そして、サブプライム危機に繋がる、数々の不動産関連ローンに頼りながらかろうじて生活が成り立つという状態にまで追い込まれて行くのです。…この件に関する詳細は後述します。

Supercapitalism
以上のような社会の生態系をうまく説明しているのが、クリントン政権で労働長官を務めた、ロバート・ライシュ教授の『暴走する資本主義』(原題:Supercapitalism)です。本当に秀逸な著書で、僕が毎年勝手に決めている、Book of the Year*(4)の最有力候補でもあります。この本の中でライシュ教授は、70年代以降、競争原理の浸透によって全世界的なトレンドとなった非民主的な資本主義の潮流を、「超資本主義(Supercapitalism)」と呼び、そのメカニズムを実証的にまとめています。広い視野とシンプルさを兼ね備えたライシュ教授の「超資本主義」社会生態系モデルは説明力に富んでいますし、無駄な言葉が少ないために要点を掴みやすい内容です。更に、「悪者」を特定して非難したり、結論ありきで分析をまとめたり、政治的な目的を正当化する意図が感じられない点、手を抜かずにしっかり整理された大量の情報の中から重要なものだけを洞察し、無駄なく抽出することで、シンプルなモデルを導いている点は、実に素晴らしいと思います。ライシュ教授はクリントン政権において労働長官を務め、バラク・オバマ氏の政策顧問でもあるため、本書は2009年の大統領選挙で民主党政権が生まれた場合のアメリカを予測するという観点においても重要ですが、彼がこのような立場にありながらあくまで社会科学者としての視点を持ち続けている姿勢には好感が持てます。

彼の論点を要約すると、アメリカの40~50年代は、GM、USスチール、AT&T、GE、スタンダード石油など、大量生産システムを構築した少数の大企業が世界市場を圧倒的に占有し、寡占状態による厚い利益を生み出していました。労働組合の組織率は高く、従業員は手厚く保護され、高い労働分配率によって世界で最も豊かな中産階級を形成していましたが、70年代以降、技術革新と経済のグローバル化によって世界的な競争が生まれ、企業は商品とサービスの価格決定力を失い、世界中から最も安い原材料を仕入れ、労働分配率を削減し、商品価格を下げながら利益を捻出する必要が生じます。企業経営者は、かつてのようにステイクホルダーの利害を調整して社会的な責任を果たすような余裕を失い、短期的な収益を上げ続けるよう株主から強いプレッシャーを受けるようになります。経営者は選択の余地なく、世界中から仕入れ業者を容赦なく選別し、人件費を徹底的に削減し、企業の利益に繋がる政策を引き出すためにロビイストに大量の資金を投下し、その結果、政治は大企業の利益に適うように強く誘導されるようになります。

しかしながら、皮肉なことに、…そしてこれは彼が洞察した超資本主義の構造そのものでもあるのですが…、社会科学者としてのライシュ教授の優れた分析は、超資本主義社会においては政治が主役になりえないと言うことを自ら証明しているように思えます。政策担当者としてのライシュ労働長官が中産階級の復興を導こうとするならば、著しい技術革新とグローバル化を伴う激烈な競争市場環境においてもなお、

株主のプレッシャーから解放され、
価格決定力を有する事業を創造し、
高い労働分配率を実現する、

という、まるで夢のような事業を実現し、社会に浸透させること以外に、この連鎖を断ち切る方法はないように思われるのですが、これは政治機能の範囲を超えているためです*(5)。このような事業を実現する有効なモデルが、次世代金融の重要な趣旨でもあるのですが、この詳細は後述します。

【2008.8.6 樋口耕太郎】

*(1) トラック輸送、航空料金、電話・携帯電話・インターネット接続料金、株式売買委託手数料などは、1970年代以降現在まで大幅に小売価格が下落したサービスの典型です。また、インフレ調整後の2000年価格で一般的な消費財の価格変化を見ると、カラーテレビは2,227ドル(1950年)から175ドル(2000年)に、電子レンジは1,300ドル(1955年)から208ドル(2002年)になり、貧困家庭でさえ73%、VTRは同じく78%普及するほどになりました。冷蔵庫は2,932ドル(1962年)から1,000ドル(2000年)へ、トランジスタは同期間228ドルから15ドルへ下落しています。標準的なパソコンは、1,300ドル(1998年)から、770ドル(2003年)まで下がりながら、性能は飛躍的に向上しています。1996年、デスクトップパソコンのハードディスクドライブの要領は1ギガバイトがやっとでしたが、10年後、1ギガバイトは人差し指ほどのUSBフラッシュメモリの容量になりました。20年から30年前、米国の典型的家庭が所有する自動車は1台でしたが、2006年には2台になり、三世帯に一軒は3台以上の自動車を保有しています。標準的な乗用車一台の値段は1982年よりも安くなっています。(以上、『暴走する資本主義』126-128ページ参照)

*(2) 資本の競争原理が導入されて投資家の選択肢が増大したため、より高い収益、より効率の高い経営資源の配分を求める株主からの声が高まります。企業経営者は株主から生産性を高めるよう非常に強いプレッシャーを受け、何百万と言う人を移動、転勤、レイオフ、降格、昇進させることになります。その結果、1973年から2006年にかけて、アメリカのGDPは3倍に(インフレ調整済み)、生産性は80%増加しました。企業収益を爆発的に増加させ、株価は上昇を続け、アメリカが世界中から資本を大量に呼び込む半面、従業員の雇用は不安定になり、福利厚生が削減され、仕事量が増えたにも拘らず、所得が一向に増加しない、という現象を生み出すことになります。

*(3) 1960年代、アメリカの主婦は毎晩夕食づくりに平均して2時間半ほどかけていましたが、1996年(データーが入手できる最新の年)には、15分にまで短縮しています。これに取って代わる形で急成長したのがファーストフードなどの外食産業です。1970年にアメリカ人がファーストフードに費やした金額は7,000億円でしたが、2000年には13兆円に増加しています。現代のアメリカ人は、高等教育、パソコン、ソフトウェア、新車のいずれに投じるよりも多額のお金をファーストフードに使っています。ファーストフード業界を代表するマクドナルド社は、アメリカ最大の牛肉、豚肉、ジャガイモ購入者、二番目に大きい鶏肉購入者です。

競争原理のルールが「食」「農業」「医療」「教育」など、人間社会の根源的な産業に適用されると、労働分配率の大幅減少だけでは済まない、深刻な弊害を多岐に生み出すことになります。ファーストフード事業にとって、売上を増加するために最も有効な戦略は、どのように言葉を飾ったとしても、結局「消費者一人当たりの年間摂取カロリーを増やすこと」に尽きるのです。例えば、この件についてマクドナルドは典型的な悪玉として扱われがちですが、社会全体で見た場合、これは企業の問題と言うよりは、社会の競争原理がこれを後押ししてると考えるべきでしょう。1990年にタコベルのバリューセット戦略が成功し、マクドナルドの売上が減少した際、ウォール街のアナリストは、マクドナルドがバリューセットを導入していないことに懸念を示し、マクドナルドの株価が急落します。このことがマクドナルドがバリューセットを導入する直接のきっかけとなり、それ以降、ジャンボサイズ化がファーストフード業界のトレンドとなりました。人間の満腹感についてのペンシルバニア大学の栄養学研究調査では、「食べ物を多く与えるだけで食欲が増加する」という傾向が明らかにされていますが、ファーストフード産業はこの原理を利用して利益を増やす戦略を採ります。マクドナルドのフライドポテトのカロリーは、1960年には200キロカロリーだったのが、現在610キロカロリーになっています。メニュー全体の傾向でも、かつて590キロカロリーだったマクドナルドの商品が、今では1,550キロカロリーになっています。

平均的なアメリカ人は、フライドポテト、ポテトチップなどの加工ポテト製品を、30年前の4倍食べていますし、油やバターは20年前に比べて一人当たり5キロ以上多く摂取しています。15年前と比較して砂糖の摂取は3割近く、高果糖のコーンシロップなどの人口甘味料は、1970年以来、一人当たり14キロに急増していますが、清涼飲料売上の成長が大きく寄与しています。現代アメリカ人は1950年代の5倍のソーダを飲み、1970年から1997年の間に、一人当たり年間消費量は79リットルから211リットルに急増していますが、公益科学センターが「液体キャンディ」と呼ぶほど、ソーダの甘味料含有量は多いのです。コーンシロップの原料は大半が遺伝子組み換えとうもろこしであるという別の問題もあります。…1970年代後半には1日1,854キロカロリーだったアメリカ人のカロリー摂取量は、2,002キロカロリーとなっていますが、追加された148キロカロリーは、理論上毎年体重を最大6.8キロ増加させるほどのインパクトがあります(ただし、アメリカ人の平均身長が増加しているなど、一人当たりの必要エネルギーも増加していると考えられますので、この効果のうち幾分かは相殺されることになります)。

現在、アメリカ人は地球上で最も太った国民になりました。全人口の約61%が、健康上の問題を生じる程度の肥満、同じく約20%が寿命が短くなるほどの肥満状態で、500万人以上のアメリカ人が、病的肥満の定義に当てはまります。子供の肥満も深刻で、19歳未満では25%が上記いずれかの肥満に該当し、この数字は30年前の2倍の水準です。肥満は労働者層に特に多いという傾向や、収入レベルが低い者ほど医者に相談する割合が低いというデータもあります。

以上、エレン・ラペル・シェル著『太りゆく人類』栗木さつき訳、2003年8月、早川書房(原題:Hungry Gene)、エリック・シュローサー著『ファーストフードが世界を食いつくす』楡井浩一訳、2001年8月、草思社(原題: Fast Food Nation)、グレッグ・クライツァー著『デブの帝国』、竹迫仁子訳、2003年6月、バジリコ社(原題: Fat Land)、を主に参照しています。

*(4) これは僕が個人的に選別する年間ベスト図書で、その年に読んだ本の中から、最もインスピレーションを得た図書を選んでいます。どんなにすばらしい本でも自分が読むタイミングによっては全く価値を見出せないときもままありますので、「ベスト図書」の選択は主観的なものです。ちなみに、2005年、2006年、2007年のBook of the Year はそれぞれ、ニール・ドナルド・ウォルシュ著『神との対話』、吉田利子訳、2002年4月、サンマーク出版(原題: Conversations with God)、ピーターラッセル著『ホワイトホール・イン・タイム』、山川 紘矢・亜希子訳、1993年4月、地湧社(原題: The White Hole in Time)、有吉佐和子著『複合汚染』、1979年5月、新潮文庫、です。

*(5) 結果として、超資本主義モデルによる彼の優れた社会洞察とは裏腹に、政策提言(の可能性)をまとめた終章は、実効ある政策になっているとは到底思えない切れ味となっています。

「金融・資本市場は効率的なしくみである」、という資本主義の第一の幻想について議論を続けます。前二稿でコメントしましたが、社会全体で見た場合、付加価値の源である事業会社が、金融業者の利益を実質的に負担するということは、金融業者の利益を事業会社が「余分に」稼がなければならない、と言うことであり、事業会社が資金調達の際に負担する資本コストはその分「割高」であることを意味します。結果として、資本市場の代表的機能である株式上場も、非常にコストの高い資金調達手段です。多くの事業経営者が、株式上場を有効な事業戦略、あるいは成功の証と考え、会社発展の重要な一里塚と位置づけていますが、株式上場が事業に対してどれだけの経済的負担を伴うかという現実を本当に理解している経営者は稀だと思います。

一般に、株式の新規上場を含む時価発行増資は、企業が調達する様々な資本の中でも最も資本コストの高い調達方法ですが、この単純な事実は意外なほど理解されていないようです。それどころか、株式は借入金と違って返済期日や約定金利がないために、コストがゼロだと考えている経営者や、配当が株式の資本コストだと考えている経営者もいるくらいです。本稿は、事業経営における資本コストの本質的な意味と、上場企業が負担する資本コストの実態を明らかにすることで、資本市場の構造を直視しようという試みです。

資本コストの本質
第一に、資本コストは、調達した株主資本に対して、経営者が責任を負う事業収益であることから、実質的な債務と考えられる点です。調達手段が株式か負債かという違いは、本質的なものではありません。負債の場合、あらかじめ約束された期日に返済できなければ債務不履行になりますが、上場株式の場合、資本コストに相当する事業収益が生み出されなければ、株価が下落し、それが長期間継続すると、経営者に対する株主からの提案や、場合によっては経営権取得を前提とした株式の買い付けなどが生じます。負債の債務不履行ほど迅速ではありませんが、長期的には経営陣の交代などによって、実質的に債務不履行とおおよそ同様の結果に至るのです*(1)。株式上場における資本コストとは、それだけの収益を「約束」したという意味で、経営者が出資者に対して責任を負う「借入条件」であり、必要な収益を生み出せなければ立場を失うという意味で、資本市場が上場企業の経営者に課す「みかじめ料」であり、経営者としての職責を全うし、株主に対する「約束」を守るための収益基準であるという意味で、経営者が出資者を裏切らないための必要条件、と言えるのです。

第二に、資本コストは経営者が株主と交わす言外の「約束」事ですが、その約束の内容は、株式の時価発行増資における株価によって規定される、・・・新株発行時の時価総額が、企業にとっての資本コストの負担量を決定するという関係にある点です。新規上場においては、より大きな時価総額と、より多額の資金調達をもたらすため、経営者や証券会社の間では、高い株価での発行が無条件に喜ばれる傾向がありますが、株価(時価総額)が高いほど、株主へ多大な約束を行うことを意味し、その後永遠に続く資本コスト負担が増大し、資本コストのために事業を拡大するという本末転倒が生じ易くなります。目先の資金調達の額と「より良い」売り出し条件に目がくらみ、経営者がより高い発行株価を望むことによって、実質的に実行不能な「約束」を株主にしてしまうケースが後を絶ちません。

例えば、5億円の当期利益、資本コスト10%のA社が上場する際、毎年の適正な利益成長の見積もりが5%であるならば、A社は、5%(資本コスト10%-利益成長率5%)の益利回り、PER20倍の株価、時価総額100億円と評価されます。これに対して、経営者仲間に見栄を張ろうとしたり、証券会社に煽られたり、自分の借金をまとめて返済したいと言った個人的な利害が気になり始めたA社の経営者は、欲を出して、より高い株価で上場しようと思い立ちます。事業計画にそれらしい新規事業を盛り込んだり、事業拡大のペースを前倒ししたり、人件費圧縮のために採用計画を遅らせたりするなど、計画を修正して毎年の利益成長を7.5%と表明することにしました。これによって当期利益5億円のA社の評価は、2.5%の益利回り(資本コスト10%-利益成長率7.5%)、PER40倍の株価、時価総額200億円と、当初の倍の株価で資金調達を行うことができるのです。

企業実体が全く同じでも、将来の利益成長率を僅か(この例では年率2.5%)上昇させただけで、株式の時価総額が倍(100億円から200億円)になるほどのインパクトがあります。A社の経営者にしても、毎年わずか2.5%程度の利益成長なら、ちょっと事業で無理をすれば実現可能であるように思えますし、その程度の違いで時価総額が倍になるのであれば、とてもうまい話ではないかと考えがちです。しかしながら、この発想の第一の問題は、この2.5%の違いによる利益を享受するのが、主に経営者自身(特にオーナー経営者)であるに対して、その差を生み出す原動力は従業員の永遠の努力に依るという、重大なコンフリクトが生じる点であり、第二に、2.5%の利益成長率の差(将来の当期利益の合計の差)は、単年度で比較すると僅かの違いのようですが、長期間では莫大な額になるという点です。当初のファイナンス(5%成長)では、30年間で合計332億円の当期利益が要求されますが、修正評価によるファイナンス(7.5%成長)では、同じく合計517億円の当期利益を生まなければ、株主に対する「約束」を満たすことができず、株価が下落するという考え方です。30年間の資本コストの差額の合計は、実に185億円(517億円-332億円)にも上るのですが、これは、資本コスト計算の分母(時価総額)が100億円から200億円に倍増したことの30年分の対価です。このように、資金調達額の如何に関わらず、A社の上場株価(正確には公募株価)によって、経営者が株主に「約束」する資本コストが332億円から517億円まで変化します。上場株価はこれほど重大な意味を持つものですが、このケースにおいては(そして、このようなケースは余りに一般的ですが)、A社の経営者が、自分の経営者仲間に見栄を張り、自分の借金を返済するという目的のために、自社の全従業員に対して、30年間で185億円の利益を追加で生み出すことを強いているという意味でもあるのです。

ROE 10%
このように考えると、資本コストは経営者にとって極めて重要な経営指標である筈なのですが、書籍を開いても、理論的な枠組みが抽象的に議論されるばかりで*(2)、経営に使えそうな具体的な数値になかなか辿りつきません。色々な情報を総合して、感覚的に捉えると、市場金利の水準や、個別企業によって変化するものの、一般的な上場株式の資本コストは、恐らく8%~15%程度ではないかと思います。結局実務的には、例えば「ROE 10%」と、大雑把ながらシンプルに捉えることが、意外に有効ではないかと思います。ROE(Return on Equity:株価収益率)は、一般に、「来期予想の税引き後当期利益」を「簿価純資産」で割ったものですが、分子が来期の予想利益を基準にしているために、成長率の概念を内包していますし、分母は簿価純資産を基準としているため、短期的な株価の変動に左右されにくく、長期間の経営指標としては、(特に、過剰なレバレッジや、純資産から極端に乖離した株価での時価発行増資がなければ)資本コストと非常に近い数値になると考えられます。「10%」は突き詰めると僕の直感によるものですが、一定の根拠として、(i)日本の上場企業の平均ROEは、かつて70年代におおよそ10%前後で推移した後、80年代から2000年前後までの20年間でほぼゼロ近辺まで低下して底を打ち、2002年以降急上昇しながら、最近は10%前後に回復していること、(ii)日経平均の長期間における配当込み複利年率リターンが12.7%であること(1950年12月末から2000年12月末までのデータ:氏家純一編『日本の資本市場』より)、(iii)英・米・独の先進国では、過去30年間おおよそ10%から15%のレンジで推移していること、(iv)日本が伝統的に低ROEであった要素(株式持合いや様々な規制など)が崩れ、資本の移動が国際化するにしたがって、今後も欧米主要国の水準との差が縮まる傾向にあると予想されること、(v)汎用性のある指標とするために、心持ち低目の水準であること、などがあります。

以上を前提とすると、ROE 10%を(永遠に)継続することが、上場企業の経営者であるための必要条件となりますが、現実的に極めて高いハードルであり、それどころか、この基準を長期間満たす企業は、4,000社の上場企業の中でも、本当に数えるくらいしか存在しません(後述および*(4)参照下さい)。必要条件でありながら、それをクリアできる企業が殆ど存在しないという事実が、資本市場の歪みを象徴しているかのようです。資本コストを満たさなければ、経営者はどこかの時点で必ず株主の期待を「裏切る」ことになるため、現実には株主を裏切らずに経営を行う経営者が殆ど存在しない、ということを意味します。

…以上の議論は、現在あるいは将来の経営者に対する批判や、上場の正否についてのアドバイスなどを行うものではありません。資本市場というメカニズムが、資本の運用者(経営者)に対して要求する収益の水準を明らかにするという趣旨であり、現状認識のアプローチのひとつです。例えば、現在の資本市場は、株主資本を10%で調達するためのメカニズムである、と…大掴みではありますが…考えることができるのです。

サラ金よりもコスト高
上場株式の資本コスト(≒ROE)は企業の当期利益、すなわち税引後利益が基準になっています。したがって、借入れなど、損金参入が可能な資本コストと比較した経済負担は、法人実効税率を40%とすると、実質的に1.7倍近くになります。すなわち、10%の株式資本コストは、借入金利の17%*(3) に相当すると考えることができるのです。ちなみに、17%は利息制限法の上限金利を超過している水準です。更に、株式上場に伴って、その日から永遠に、年間5,000万円から1億円の費用が追加的にかかると言われています。具体的には、株主総会やIRの費用、証券発行費用、各種届出書・報告書作成費用、上場維持費用、公租公課、監査法人、弁護士会計士等費用、IR担当者の人件費、企業統治・コンプライアンスの整備費用などが該当し、更に、コンプライアンスの強化に関する日本版SOX(サーベインズ・オックスリー)法などの導入によって、実質的な費用が上昇する傾向にあります。例えば、新規上場時に50億円の資金を調達した企業は、税前相当の資本コスト8.5億円(50億円×17%)+上場関連費用1億円の費用が生じ、これらの合計は実質的に19%((8.5億円+1億円)÷50億円)の借り入れと同等の経済行為となります。以上の様に、そもそも株式上場による資金調達は、サラ金からお金を借りて事業を行う以上に資本効率が悪い、という側面があるのです。

資本コスト「10%」企業は例外的
株式の資本コストは、企業が上場している期間、複利で永遠に求められる収益であり、理論的には企業収益がこれを下回ると、株価が下がり、最終的には経営責任を問われる性質のものです。しかしながら、資本市場が要求する資本コストを永続できる企業は、数える程しか存在し得ないことが計算上明らかです。例えば、簿価純資産100億円で新規上場した会社が、10%の収益を複利で継続すると、ほぼ50年後には簿価純資産が1兆円を超えますが*(4)、日本の全上場企業約4,000社のうち、簿価純資産が1兆円を超える企業はわずかに40社弱、その40社の中で最も純資産額の小さい企業でも、日立、任天堂、三菱地所など、日本を代表する大企業です。毎年何百と上場する事業会社の一体何%が、将来この水準の企業に成長することができるというのでしょう。

株式上場:まとめ
現在の資本市場において、株式を上場するということは、すなわち:

①新規上場を含む時価発行増資において、目安として「ROE 10%」の資本コストが要求されます。
②「10%」の資本コストは、実質的に17%の金利で借入を行う行為と同等の負担を企業に課します。
③「10%」の資本コストを永続できる企業は実質的にほとんど存在しません。
④時価発行増資の際、特に新規上場において、経営者は企業の成長予測を甘く見積もり、株主に対して資本コストを過大に「約束」し、その負担を従業員の将来の労働に転嫁する傾向があります。
⑤一般に、資本市場が企業に要求する資本コストは、事業実体に比較して高すぎるため、資本コストを賄うために、事業を無理に拡大するなど、経営者は本末転倒の事業経営を強いられがちです。
⑥その結果、あるいはその過程において、労働分配率を低下させ、従業員に対して本来不要な労働を大量に課し、株主に対して多くを語らず、重要な情報を明確に開示せず、あるいは程度の差こそあれ「ごまかし」を行い、粉飾、隠蔽、虚偽記載、不適切な経営行為が横行する、現在の「企業文化」を生み出している可能性があります。
⑦したがって、上場企業はその構造上、その大半の経営者が、多かれ少なかれ、自覚していようといまいと、いずれどこかの時点で、必然的に株主との「約束」やステイクホルダーを裏切ることになる可能性が高いと言えます。
⑧情報開示が四半期ごとに求められるようになり、矛盾する事実の辻褄を合わせるために、更に矛盾点を拡大するという悪循環に陥っています。

つまり、現在の資本主義社会と資本市場のメカニズムにおいて、株式上場は既に「良い金融」(『次世代金融論《その4》』参照下さい)ではなくなっているのです。上場企業の経営者が、ステイクホルダーに対して誠実であり、(金融のためにではなく)事業本位の経営を優先することは、不可能と言わないまでも、非現実的と考えるべきでしょう。多くの経営者にとって、喜びだったはずの株式上場が、四半期決算発表ごとの恐れの種になり、彼らの最大の悩みは「なぜ上場してしまったか」、という笑えない話も耳にします。上場を選択しない大企業の経営者は直感的にこの点を理解しているのですが、上場を選択することの正否は別にして、上場の本質やメカニズムを理解し、資本コストが事業に与える影響を掘り下げて理解することは、多様な観点による経営判断を可能にすると思います。

次世代金融
以上の問題に対して根本的な対処を行うためには、

①現在の株式市場への上場を事業戦略として選択しない、
②資本市場への上場よりも株式資本コストが低く、効率の高い資金調達(次世代金融)を行う、
③資金調達において、自社の成長率を適正あるいは保守的に見積もる、

という選択肢が合理性を持つのです。

『次世代金融論《その3》』でコメントしたように、仮に、社会全体で見た場合、実体経済が金融に対して、全収益の「40%」を費用として支払っているのであれば、次世代金融は、企業の資本コストを10%から最大6%まで減少させる可能性を秘めているのです。6%の資本コストで株式資金をふんだんに調達することができれば、事業はどのように変わるでしょう?

前述のA社は、資本コスト10%、5%成長を前提としたファイナンスの対価として、30年間で合計332億円の当期利益が要求されました。もし、次世代金融市場から要求される資本コストが6%であれば、A社の成長率は1%、30年間で合計174億円の当期利益を提供すれば足ることになります。この資本コストの差額、 …158億円(332億円-174億円)の利益、 …税引き前相当では263億円(174億円÷(1-40%))の費用、 …年間平均では実に8.8億円(263億円÷30年)… を原資とすれば、より多くの従業員を、より良い条件で雇用することができないでしょうか。従業員が、より自分の好きなことに打ち込む機会を得、経営者は、いたずらに事業の量的な拡大を追わず、質の高い商品と正直なサービスに注力することができないでしょうか。

【2008.7.9 樋口耕太郎】

*(1) 安定株主を含み、発行済み株式の50%超を経営者が実質的に保有する場合、確かに法律行為として経営者が解任されることはないのですが、現実には、経営者(一族)が過半数の株式を保有している上場企業は極めて少数派でもあり、十分な企業収益が伴わなければ経営者に対する直接間接のプレッシャーは相当高まるでしょう。資本コストに関する一連の議論は、『トリニティの企業金融論』6~11ページ(II. 資本コスト)を参照下さい。

なお、本稿のテーマは上場会社に関するものですが、未上場会社であっても、株主として事業パートナーを募る際には、本質的には全く同様の法則が適用します。

*(2) 資本コストは、例えばモダンポートフォリオ理論において、ノーベル経済学者ウィリアム・シャープが創案した資本資産価格モデル(CAPM:Capital Asset Pricing Model)によって定式化されています。考え方は非常にシンプルで、①リスクと資本コスト(リターン)は比例する、②株式の資本コスト(Re)は、信用リスクが存在しないと考えられる長期国債の利回り(Rf)に、株式市場のリスク(Rm)、当該株式と市場の連動性(β)の各要素を加味したもの、というものです。

Re=Rf+β(Rm-Rf)

Re: 株主資本の資本コスト (期待総合利回り)
Rf: リスクフリー・レート(一般的には長期国債利回り)
Rm: 株式市場の期待収益率(株式市場全体に対する期待総合利回り)
Rm-Rf: 市場のリスク・プレミアム
β: ベータ値(当該株式と、株式市場の連動性)

定式化されているといっても、変数が定まっているわけではないため、個別株式の資本コスト(Re)がいくらか、という根本的な問いに回答を提供するわけではありません。株式市場のリスク・プレミアム(Rm-Rf)は5~6%と言われながら、決まった数値が存在するわけではありませんし、リスクフリーレート(Rf)も、例えば日本の超低金利環境で10年国債利回りを使用することがどれだけ妥当かという問題もあります。

*(3) 実効税率40%で税金を支払った後の10%の株式資本コストは、損金参入が可能な17%の金利を支払うのと同等の負担と考えることができます。10%÷(1-40%)=16.6666%

*(4) 現実的な想定ではありませんが、50年間配当を行わないという前提で計算しています。しかし、この点を差し引いたとしても、資本コスト10%を永遠に継続できる企業は、数える程しか存在しない、という事実は変わりません。

2008年7月9日現在で、簿価純資産が1兆円を超える日本企業は、トヨタ、三菱UFJ銀行、NTT、三井住友銀行、ソニー、NTTドコモ、みずほ銀行、東京海上日動、松下電器、東京電力、キャノン、ホンダ、JT、日産自動車、デンソー、KDDI、関西電力、三菱商事、7&I、富士フィルム、中部電力、武田薬品、JR東日本、野村證券、新日鉄、豊田織機、三菱重工、三井物産、京セラ、JFE、シャープ、第一三共製薬、ブリヂストン、三菱地所、損保ジャパン、任天堂、住友信託銀行、九州電力、日立、の39社です。(QUICKのデータ、7月9日の株価・PBRより算出)

前回のエントリーでは、資本主義の第一の幻想について、資本主義を支える金融・資本市場の利用コストが高く、お金の流通メカニズムとして非効率であることを指摘しました。社会全体で見ると、付加価値を生み出す主体は実体経済であるため、金融業の利益は、実体経済が稼いだ利益の中から、お金のやり取りに際して生じる「摩擦」分を、実体経済に対して請求したものです。本来、金融は、事業者をサポートする黒子であるときに、最も社会的に寄与する存在ですが、事業者が生み出した利益を流通過程で収受することで、全企業利益の40%(米国のケース)を「稼ぎ出す」金融業の姿は、不健全を通り越して異常事態といっていい程です。2006年度のニューヨーク州調査によると、ニューヨーク市内の証券会社で支払われたボーナスの合計は約2兆8,200億円。社員1人当たり約1,600万円。特に、ゴールドマン・サックスは全世界の社員に平均約7,300万円の報酬を支払い話題になりました。・・・念のために、これは社長でなく、社員への平均支給額です。同年度、ゴールドマン・サックスのロイド・ブランクファインCEOが受け取ったボーナスは約63億円で、ウォール街の最高額を更新したそうです。社会全体で見ると、金融業界の利益の源は事業会社の稼ぎであるため、事業会社はこれだけの利益を負担するために、質の高い実業を行う余裕を失い、不毛なM&Aと、「合理化」と称する大量解雇に明け暮れ、正社員を削減し、従業員を驚くほどの低賃金で酷使することになります。・・・ウォール街の莫大な収益を支えるために、労働者の30%が時給8ドル以下の労働を余儀なくされているような社会システムが、いずれ崩壊するのは必然ではないかと思います。

サラ金からお金を借りて事業をしようとする事業家はいないと思いますが、アメリカは社会全体で見ると、既にそのような状態に陥っています。・・・それどころか、サラ金を通り越して、闇金並みの利率40%を金融・資本市場に払い続ける国が、世界で最も豊かとされているのは、アメリカン・ブラックユーモアなのでしょうか。アメリカは世界に先駆けてこのような金融主導型社会を構築してしまったため、永遠に金融収益を拡大し続けなければならない立場に自らを追い込んでしまいました。国際金融資本はウォール街というマッドサイエンティストが生み出したフランケンシュタインのようなものです。ドルを基軸通貨として好きなだけ紙幣を印刷しても、85年のプラザ合意、95年以降の日本版の金融ビッグバンなどの政治的枠組みで日本市場を草刈場にしても、自国の中産階級を崩壊させながら実体経済を焼け野原にしても、フランケンシュタインの空腹感が満たされることはありません。最近では、グローバル経済・金融市場の構築と、金融工学を駆使した証券化による大量の信用創造などによって、本来価値のない証券にAAAの格付けを付して世界中に大量に流通させ、サブプライム危機をもたらしています。…日本ではこのような社会をモデルとした「構造改革」が、1995年の橋本政権以降、(小渕)-森-小泉-安倍-福田とバトンを手渡しながら急速に進行しています。

良い金融、悪い金融
刃物が人を殺すのではなく、扱う人の問題であるのと同様に、金融もそれ自体善でも悪でもありません。どのような金融が社会的に効率が高く・・・すなわち社会を豊かにし・・・、どのような金融が社会を弱体化させるか、という「良い金融」と「悪い金融」を区別して理解する必要があります。「良い金融」とは事業機会を創出し、実体経済を豊かにするもので、事業のために金融が機能する状態です。「悪い金融」とは事業収益の成長分を金融が収受するもので、金融機能が実体経済の足枷となっている状態です。高い金利が必ずしも「悪い金融」ではなく、事業収益とのバランスが最も重要です。例えば、後述するグラミン銀行の事例のように、人の生活を豊かにする利益率600%の事業が社会に存在するとき、20%の金利で資本を提供する行為は、「良い金融」である可能性があります。・・・それどころか、このケースでは200%の金利を請求しても、債務者の生活を助け、社会的な意義が存在するかも知れません。

成長社会に投下される金融資本は、当初は小額の資金が非常に高い利回りで運用されます。一般に、経済が高度成長から安定成長へ移行するに従って、社会が豊かになったことの証として、社会の事業収支はどこかで必ず大きく低下します。単純に考えて、年率20%で資本が運用されれば、5年で2倍、10年で4倍というように、運用資本が等比級数的に増加して行く反面、社会が経済発展を遂げ、成熟するにしたがって、実体経済における高成長事業はどんどん減少していきます。また、例えば100億のファンドと1兆円のファンドでは、前者のほうが圧倒的に運用しやすいという性質があります。したがって、社会が経済成長を遂げるにつれ、倍々ゲームで増え続ける大量の資本を、成熟した実体経済にそぐわない高利回りで運用せざるを得ないという、ギャップが必然的に生じるのです。社会的に最も合理的な行為は、金融専門家がこのギャップに相当する運用資本を投資家に戻すことであり*(1)、恐らく本質的にそれ以外の解決方法は存在しないのですが、資本主義社会において、資金の量は社会に対するコントロールと自らの存在価値そのもの(『次世代金融論《その2》』ご参照下さい)であるため、現実にそうなることは稀です。次善の策として、資本主義が持続するためには、増え続ける運用資本を高利回りで運用するために、新しい金融市場を永遠に開拓し続ける必要が生じます。ウォール街が得意とする革新的な金融工学と、アグレッシブなバンカーたちによって、資本市場とIPO、ベンチャーキャピタル、債権トレーディング、エマージングマーケット、金融デリバティブ、ジャンク債、証券化、プライベートエクイティなど、創造的な金融商品と市場が大量に開発され続けて来た背景はこのようなものだったと思います。しかし、どこかの時点で、投資家が期待する高利回りの運用が可能な実体経済が、運用資本の量に見合うほど存在しなくなると、投資家はやはり必然的に、そのギャップの額だけ損失を被ることになります。特に1995年を境に、社会全体で見た金融資本の要求利回りが、投資対象となる実体経済の事業収益を上回り、またそのような資本が実体経済の規模を超えて、世界中に大量に流動する状況へと変化しています。これが悪い金融市場の始まりであり、資本主義のおわりの始まりです。サブプライム危機の本質は、このように説明できるのではないかと思います。

社会を豊かにする金融
「貧者の銀行」として知られるグラミン銀行とムハマド・ユヌス総裁が、2006年にノーベル平和賞を受賞しました。事業経営者が平和賞を受賞するのは恐らく初めてではないかと思います。現在、グラミン銀行はバングラデシュの首都ダッカを本社とし、9万人の「乞食」を含む750万人の低所得者に対して、600億円の貸し出しを行うなどの(2008年5月のデータ)マイクロ・クレジット事業を運営しています。1974年、ダッカ近郊ジョブラ村の42人の貧しい職人に対して、ユヌス教授が貸し付けた27ドルから、グラミン銀行の事業が誕生します。以来、「信用力」が乏しいと言われる貧困層に対して、無担保融資を実行しながら、返済率が98%を超えるなどの実績を伴って驚異的な成長を続けています。グラミン銀行は、それ自体が、資本主義と金融業の常識がいかに恣意的なものであるかを実証する存在でもあり、グラミン銀行の事業・・・特にその成り立ち・・・を考察することで、金融機能の本質・・・「良い金融」・・・についてのインスピレーションを受けることが可能ではないかと思います。

ユヌス教授が米国から帰国し、農村部の大学で経済学の教職に就いた1974年、バングラデシュは深刻な飢饉に見舞われました。飢餓のために大量の人が瀕死の状態にある中、この環境とは見当違いの経済理論を教えることに大きな矛盾を感じ、経済学者としてではなく、人間として何かできることはないかを真剣に考え始めます。例えほんの少しずつであっても人々の生活が昨日よりもよくなる方法を見出す努力をしたいという観点に立つと、人々の生活の現実を直視することができるようになります。村々を自らの足で巡り始めたある日、ある荒れ果てた家の前で、美しい竹細工の椅子を作っているにもかかわらず極めて貧しい経済状況にあるソフィアという女性との出会いがありました。ユヌス教授はそんなに美しい竹製の椅子を作っているのに、なぜ彼女がそれ程貧しい状況を脱することができないのかについて理解したいと考えました。

1970年代当時、単純な日雇い労働でも1日20セントになるのに、ソフィアの椅子製作で得られる稼ぎは1日2セント。わずかの稼ぎはぎりぎりの生活費に消え、貧しい生活から永遠に抜け出せないという循環が出来上がっていました。貧しいソフィアには材料の竹を買う20セントがなかったため、商人から材料代を借りざるを得ず、貸付の条件として、仕上がった椅子を言い値(22セント)で商人に売らされていたためでした。もしソフィアにわずか20セントのお金があれば、そのお金で材料の竹を購入し、マーケットで自由に販売することでその何倍もの利益を手にすることができます。この事実を知ったユネス教授は、材料代をソフィアに貸し与え、そのお金で商人へ借金を返済し、完成した椅子をどこでもいいから一番高く売れるところで売るように説得しました。その結果、ソフィアの毎日の儲けが1ドル25セント、以前の60倍に増えたのです。椅子の市場価格は、儲けの額に材料費20セントを加えた1ドル45セントと推測できますが、商人はソフィアへ材料代の20セントを貸し、完成した椅子を彼女から22セントで買取り、マーケットで1ドル45セントで売却していたとすると、ソフィアに対して実質的に1ドル23セント、すなわち1日615%もの金利を課していたことになります*(2)

ユヌス教授は常々教室で、多額の投資を伴う開発計画やバングラデシュの経済状況や貧困状況を改善する方法について教えていましたが、ソフィアに会うまでは、1ドル足らずのお金がないために苦しんでいる多くの人の存在を知りませんでした。更に調査を進めるうちに、貧困層各家庭の借金が平均1ドル以下であることがわかり、たった1ドルで彼らが貧しい生活から脱却することができるのだという事実にたどり着きます。ユヌス教授は自分のお金を村人に差し出すことも考えましたが、それでは根本的な解決にならないと思い直し、大手銀行に対して、貧しい人への貸し出しを願い出ます。自分が保証人になるなどしてようやく借り入れたお金を貧困層に貸し付け、目を見張るほどの返済実績を何度銀行に示しても、銀行は「貧しい人は信用に値しない。彼らがお金を返せるとは思えない。」という理由で直接の融資プログラムを検討しようとはしませんでした。結局ユヌス教授は、1983年に貧困層向け融資を行うグラミン銀行を自分自身で創設するに至ります。ユネス教授が実感したことは、貧しい人々に適正な条件で資金が提供されるなら、彼女たちはそれ以外の手助けがなくとも生産性の高いビジネスを始めることができる、ということです。

「良い金融」は優れた事業戦略
グラミン銀行の事業は、貧困を減らすための現実的な行為として世界中から賞賛され、注目されていますが、金融メカニズムの観点から事業成功の鍵を分析すると、実体経済の現実を理解し、その現実とバランスの取れた「良い金融」を社会に提供したという、基本的なことではないかと思うのです。逆に考えると、グラミン銀行がこれほど注目されていることの裏返しとして、「良い金融」を実行する金融専門家が社会に殆ど存在しなくなっていること、そして、より重要な点として、「良い金融」は高い事業性を生み、金融事業戦略として非常に有効な選択肢であると言うことです。

【2008.7.2 樋口耕太郎】

*(1) そして恐らく、資金を戻された「投資家」は、その資金を再投資ではなく消費する必要があります。

*(2) グラミン銀行とムハマド・ユヌス氏に関する記述は、ムハマド・ユヌス+アラン・ジョリ著『ムハマド・ユヌス自伝』、坪井ひろみ著『グラミン銀行を知っていますか』、ニコラス・サリバン著『グラミンフォンという奇跡』、2005年1月26日東京大学でのムハマド・ユヌス氏による講演録、グラミン銀行ウェブサイト、などを参照しています。

資料のデータが一部不足しているためにはっきりしないのですが、ユヌス教授から資金を借りたソフィアは、1日に2つの椅子を作るようになり、1ドル25セントの儲けは椅子2つ分だったかも知れません。その場合でも、商人はソフィアに対して1日300%を超える金利を課していたことになります。

資本主義の第一の幻想: 「金融・資本市場は効率的なしくみである」、は資本主義を支える金融・資本市場のメカニズムが、著しく、といって差し支えないほど非効率であるという大問題の裏返しです。

金融とは、資本を余分に保有している人から、資本を必要とする人に融通する、お金の流通機能です。効率的な金融とは、流通コストが低く、投資ニーズと運用ニーズがうまくマッチングする仕組みであるべきです。突き詰めて考えると、世の中の金融資本の大半は個人が保有しており、その資本を最終的に運用する主な主体は企業ですので、1,500兆円といわれている日本の個人金融資産を、できるだけ流通費用をかけずに、可能な限り直接企業に提供するしくみが、最も効率的な金融市場のイメージといえるでしょう。これを前提とすると、例えば、社会的に効率の高い証券取引市場は、個人投資家が極小額の売買委託手数料、運用委託手数料、投資顧問料(および税金*(1))で、株主利益を享受できるものといえます。別の表現では、企業の税引き後利益の額を、可能な限りそのまま個人株主に分配するメカニズムが、効率の高い、社会的に理想的な金融機能です。世の中の金融専門家が喧伝する株式投資の「常識」とはかなり結論が異なりますが、(i)専門家に運用を任せず、(ii)流動性が極小で、(iii)超長期の、(iv)直接投資・保有を行う個人投資家が増加するほど理想的な金融機能を果すわけで、逆説的ですが、現在の金融機能そのものの極小化が最も金融効率を高める、ということを意味します。・・・この件は後に詳述します。

40%の手数料
上記(i)~(iv)は、金融業の常識を知る人にとっては馬鹿げた議論に聞こえるかも知れませんが、現実に投資家と企業が実質的に負担している巨額の金融流通コストを直視すると、それ程非常識な論点ともいい切れないことがご理解頂けるかも知れません。現在の証券取引市場のメカニズムでは、企業の税引き利益が個人投資家に届くまでに・・・非常に大掴みの推定ですが・・・ざっとその40%*(2) 前後が金融専門家の手数料として消えてなくなるイメージです。例えば、5億円の税引き後利益(当期利益)を生み出す上場企業A社があります。A社の株価が、ごく平均的に、当期利益の20倍(PER20倍、益利回り5%)で評価されるとすると、株式時価総額は100億円(5億円×20倍)です。このとき、A社株式の年間売買回転率が100%、平均売買手数料が往復1%とすると*(3)、株主が支払う株式売買委託手数料の合計額は年間1億円です。更に、生命保険、損害保険、年金、投資信託などにお金を預けている人は、恐らく自覚もないままに、金融専門家を通じてA社株式を保有しています。運用報酬を毎年投資額の1%支払うとすると*(4)、ここでも株主全体で年間1億円。先の株式売買委託手数料と合計して2億円が「流通」費用として資本市場に吸い取られるイメージです。金融専門家たちに支払われる2億円という額は、A社が1年間の事業活動で稼ぎ出した税金支払後当期利益の実に40%に相当し、個人投資家に渡るお金は残りの60%に過ぎません。

・・・株式投資でお金持ちになる人は殆どいない、あるいは「個人投資家の9割は損をする」と言う人もいますが、個人投資家には始めから「40%」のハンディがあるとすれば、むしろ当然と言えるかも知れません。株式投資は「高リスク」という一般的な認識は、全く正しいといえるのですが、これは必ずしも株式という資産がリスキーなのではなく、資本市場というメカニズム(あるいは金融専門家)が株主のリスクを高めているだけなのかも知れません。そして、既存の資本市場がこれほど非効率であれば、新たな概念でより効率の高い市場を生み出すことは、実は容易なことではないかと思うのです。

株式の流動性について
現在の株式市場は出来高の多い(つまり売買回転率の高い)銘柄や、機関投資家が上位株主を占める銘柄が優良とされており、上記の議論とは文字通り正反対の価値観が市場参加者の常識とされています。しかしながら、一般的事実として、誰が株主かということ、すなわち株主の質は企業経営に非常に大きな影響を与えます。出来高が高いということは、毎日大量の株主が会社を離れていくということを意味します。本来最も重要な事業パートナーである株主が、毎日頻繁に入れ替わり、事業を深く理解せず、短期的な株価の変動が最大の関心事であるような会社と、事業に誠実な関心を持ち、長期的な企業の成長を応援する会社では、根本的な点において何かが決定的に違う筈です。これは未上場企業であれば常識的な発想なのですが、上場会社に同様の原理が適用すると考える経営者は意外なほど少ないようです。上場会社であっても、株主の質に注意深く意識を払い、好ましい株主と長期的で良好な関係を維持することは重要な経営課題ではないでしょうか。このような考え方に基づくと、もちろん無条件ではないにせよ、事業的な観点からも、株の売買は活発でない方が好ましい、流動性は少ないほど好ましい、という発想が可能です。常識はずれの考え方のようですが、世の中には大成功事例が存在します。バークシャー・ハサウェイ社(ニューヨーク証券取引所にて上場)はその時価総額(株式時価総額は約20兆円超)に比較して著しく売買高が少ない企業です。その株主は、驚くべきことに毎年その98%が前年と同じメンバーであり、株主の恐らく90%はバークシャー株式が最大保有銘柄である投資家によって所有されており、実質的に大半の株主は個人であり、機関投資家の保有比率はこの規模の他者と比べても例外的に小さい、という特殊な株主構成を有しています。個人投資家が長期株主になることを選択するのであれば、機関投資家を通さずに直接の株主になった方が、圧倒的に経済効率が高いということは言うまでもありません。この件に関するより詳細な議論は2007年4月1日のエントリー『トリニティの企業金融論』31~40ページ(VII. 株価、時価発行増資、配当政策、IR)を参照下さい。

金融主権社会の弊害
金融が実体経済よりも重要視される社会は、尻尾が胴体を先導する犬のようなものです。企業の事業活動と付加価値の創造に直接寄与しない金融専門家が、事業活動から生まれた最終果実の「40%」を受け取るような市場メカニズムは、金融が本来果すべき、事業の黒子としての役割を完全に逸脱しています。米国では、2007年時点で全民間労働人口の5%を占めるに過ぎない金融セクターが、企業利益全体の40%、株式時価総額の20%を占めています*(5)。一義的に富を生まない金融セクターが、全米企業利益の40%を占めている現状は、企業の税引利益の「40%」を流通手数料として吸い上げる資本市場の姿に呼応するかのようです。

金融専門家に税引き後利益の「40%」を支払うということは、企業にとっては「40%」余分に収益を、しかも税引き後の収益を上げなければならないということを意味します。より高い事業収益を迫られた多くの企業は、(i)M&Aや事業の拡大再生産など、資本の力を借りて収益を押し上げようとするか、(ii)労働者の賃金を減らし、より濃度の高い労働を要求し、正社員を減らし、労働分配率を下げることで事業収益の帳尻を合わせようとします。マッキンゼーが2001年に米国で行った調査では、ウォルマートが「経営革新」の模範例とされていますが*(6)、後者(ii)の典型例でしょう。組み立てラインの運転時間を短縮し、仕事量を倍にし、休憩時間を短縮すれば、確かに名目時間当たりの生産性は上がります。つまり、より少ない賃金で、より多くの労働力を引き出す「鬼」のようなやり方が、優れた経営として評価され、権威ある「識者」によって礼賛されているのです。そのような経営手法の社会への広まりなども寄与して、全人口の5%が60%の富を保有する反面、全労働人口のほぼ30%が時給8ドル以下で働く(1998年経済政策研究所のデータ)格差社会構造が生まれ、かつて世界中の羨望の的であった米国の中産階級は壊滅状態となりました。中産階級の平均所得の増加が止まってから久しく、米国の世帯は長い間、共働きと持ち家価格の上昇によってこの状況に対応してきました。僕も、少なくとも1990年代前半に、米国では専業主婦が女性にとって相当のステイタスであることを知って驚いた記憶があります。1997年7月以降のサブプライム危機は、大恐慌以来の金融危機であるとして世界中から注目されていますが、それ以上に、米国中産階級の息の根を止める最後の決定打になったことが、より本質的かつ重大な点であり、遠からずその事実が痛みを伴って顕在化するでしょう。

【2008.6.25 樋口耕太郎】

*(1) 税金は本来社会に還元されるものと考えると、各種税金(株式売買に付随する委託手数料への消費税、登録免許税、譲渡益税、配当課税など)の支払いは、社会全体から見ると必ずしも市場の効率を下げるものではありません。その意味で括弧にて表現しています。最も昨今の税金の使われ方を見るに、括弧ははずした方がよかったか、とも思いますが・・・。

*(2) 本稿で表現している通り、企業当期利益の「40%」という比率は、非常に大掴みな推定値です。市場環境によっても大きく変動するなど、正確な算定は事実上不可能と思い、乱暴に推定しましたが、そのためカギ括弧にて表現しています。僕の感覚では、当たらずといえどもそれ程遠からず、わずかに誇張気味かもしれませんが、現実のイメージを、おおよそ伝える水準ではないかと思います。税引き後利益に対する比率は、高PER銘柄については過小評価されることになります。なお、PER20倍は日本の株式市場の長期的推移から勘案すると、比較的保守的な水準ではないかという感覚です。

なお、株式のような変動商品に関する「40%」に対して、銀行預金、MRF、生命保険、年金などの確定利回り商品は更に非効率です。例えば日銀が発表している2008年4月の国内銀行の平均貸出金利1.92%に対して、5月末の店頭表示預金金利は、最も金利の高い1,000万円以上10年物定期で0.86%となっています。預金には多様な期限がありますので、銀行全体の平均預金金利がこの利率ということはあり得ませんが、仮にこの数字を採用しても、企業が銀行へ支払う金利費用の65%以上、平均預金金利を大掴みに0.5%と推定すると、実に74%が銀行への対価として支払われていることになります(もちろん銀行は預金者に対して流動性と確定利回りを保証しますので、考え方としては、銀行が受け取る収益の中には、債務者の信用リスクを銀行が負うことの対価も含まれていることになりますが、ここではその点は無視しています。また、低金利環境化においては金融専門家に対する分配「比率」が高めに算出される傾向はあります)。

また、6月23日現在の野村證券のマネー・リザーブ・ファンド(追加型公社債投資信託)は、予定利率0.378%に対して、信託報酬1%が請求されるため、単純計算では、やはり約73%(1%÷1.378%)が金融専門家への手数料として支払われます。それにしても、分配利率0.378%の投資信託の運用報酬が1%というような商売が存在すると言うこと自体驚きです。恐らくこれ以上金利を高くすると、銀行預金から大量の資金流出が生じることを防ぐための、一種カルテル価格ということだと思いますが、良い悪いは別にして、既存の金融市場の非効率さを象徴するような商品だと思います。

*(3) 証券取引市場で支払われる売買コストは、取引金額(出来高)×手数料によって決まります。株式売買委託手数料はネット証券の登場によって、著しく低下しましたが、市場平均出来高は近年急上昇していること、などを勘案して大掴みに推定したものです。

*(4) A社株主の大半がこのような機関投資家だとした想定ですが、もちろんこの想定は現実的ではありません。ただし、生命保険、年金、更にこれらの機関投資家がヘッジファンドやファンド・オブ・ファンズ経由で投資する株式などを勘案すると、金融専門家への委託報酬は投資額の1%を遥かに上回るケースも少なくありません。これらをざっくり織り込んで、時価総額の100%に対して1%と便宜的に推定しました。

*(5) “Wall Street’s Crisis” The Economist, March 19, 2008 print edition.

*(6) 『クーリエ・ジャポン』2008年3月号、バーバラ・エーレンライクのコラムより。本稿では、別途彼女の著書『ニッケル・アンド・ダイムド』も参照しました。

『第三の波』『パワーシフト』などの著書で知られる未来学者アルビン・トフラー氏は、近著『富の未来』*(1) で、「資本主義は基本的な性格の見直しを迫られているが、この「見直し」は、資本主義の根本に関わる革命的な変化を伴う。その後、残ったものは資本主義と呼べるのだろうか」、という趣旨のコメントをされています。この現象を「資本主義の崩壊」*(2) と呼ぶべきかどうかは議論が分かれそうですが、いずれにせよ、近年、特にサブプライム危機をきっかけに、一部の識者が真剣に懸念する政治経済のテーマになろうとしているのではないかと思います。

「崩壊」の引き金
1990年代の中頃以降、グローバル金融の拡大とボーダーレス化によって、今まではいくつもの「商品ブロック」と「地域ブロック」に分かれていた金融市場が一気に繋がり、事実上一つの「グローバル金融市場」が生まれようとしています。国際金融資本にとっては事業機会を大幅に増加するという(目先の)利点があるかも知れませんが、大量資本の流動性と価格変動が、大きく、かつ一様になるため、市場暴落に伴う金融危機の規模も拡大の一途となっています。

1990年代前半までの金融市場は、例えば米国では、ジャンク債市場の崩壊と帝王マイケル・ミルケンのドレクセル・バーナム・ランベール証券の破綻(1990年)、ジャンクボンドを買い込んだ貯蓄貸付組合(S&L)の大量破綻、1980年代後半から1990年代前半の不動産大不況、預金保険制度の崩壊と整理信託公社(RTC)による大量の不良債権処理、ゴールドマンサックスが破綻に瀕した住宅モーゲージ証券の暴落(1994年)、などはいずれも大規模とはいえ、内国市場の問題でした。しかし、1990年代の半ば以降、1997年のアジア通貨危機では規制の緩い地域で設立されたオフショア・ヘッジファンドが強く関与していたことが注目され、1998年8月のロシア金融通貨危機でアメリカの商業不動産の証券化市場が崩壊し、ドリームチームといわれたヘッジファンド、LTCMが破綻するなど、地球の裏側にある、全く種類の異なる市場のクラッシュが、一瞬にして別の市場に飛び火する現象が起こり始めます。グローバル金融市場の広がりと同時に暴落規模も驚くべきスピードで拡大し続けています。日米市場で連動した2001年のネットバブル崩壊、2007年7月以降のサブプライム危機は、1990年代のクラッシュと比べても破格に巨額の損失を生み出しています。更に問題なことは、市場が暴落するたびに、公的資金の拠出がほぼ習慣化してしまっていることで、これは、資本主義社会が誇る金融市場が、既に自立機能を持たないということを自ら証明しているようなものです。サブプライム危機の発生から1年近くが経過してもなお、ユーロおよびウォール街のインターバンク市場は各国中央銀行の介入なしでは機能していません。実質的に市場メカニズムが破綻し、各国中央銀行によって運営されているような状態です。

90年代中以降のグローバル金融の変容は、ポーカーゲームで負けるたびに掛け金を倍増して、損失を取り戻そうとするギャンブラーに似ています。この戦略は、資金が無限にある限りは損を取り戻すことができます。グローバル金融市場も、今のところクラッシュのたびに中央銀行や各国の協調によってシステムを辛うじて維持している状態ですが、今後益々市場が広範囲に繋がり、一様に価格変動し、巨大な資金が国境を越えて大量・高速に移動する傾向が継続すると、どこかの時点で・・・それも近い将来・・・中央銀行や公的資金が支えきれない水準のクラッシュが生じることは、必然ではないかと感じられるほどです。本来、実体経済を助ける黒子であるべき金融機能が、90年代半ば以降、すっかり国際経済の主役に躍り出ていますが、血液が決して体の代わりにはならないのと同様、金融が主役の経済は決して長くは続きません。金融が実体経済を振り回す本末転倒は、いずれ、経済全体を崩壊に導く原因となるでしょう。それはいつでしょうか。サブプライム危機が、その引き金なのでしょうか。

資本主義と金融市場
仮に、資本主義を、「資本の量が、物事をコントロールする社会の仕組み」と単純に考えてみます。キーワードは、「資本の量」と「コントロール」です。この定義に基づくと、例えば、「会社は株主のものである」という価値観が力を持つ社会は、より資本主義的といえます。そのような社会における会社は、組織であると同時に資産であるため、財務的・社会的・組織的機能は、いわゆる「資本の論理」によって決定されます。金融グローバリゼーションに伴って、企業金融の資本提供者が、商業銀行の貸付(デット)資本から資本市場やファンド資本(エクイティ)へ移行し、それに伴う企業買収が増加する傾向は、資本による企業への影響力の高まりであり、資本主義的だといえます。債権譲渡による不良債権処理は、債権を資本に転換する効果があり、資本主義的な活動です。人材派遣業の急増と労働分配率の低下は、社員の権限を株主に移転する効果があり、これも資本主義的な変化です。更に、この考え方は経済界以外にも適用可能です。日本の政治は選挙による代議制であるため、その意味では資本主義的ではありませんが、選挙に勝つためにお金が必要とされるほど資本主義的と言えます。選挙地盤は金銭価値に転換できるのれん資産と考えることができるため、二世・三世議員の増加は、より資本主義的な政治体制ということになりますし、政治が資金を投下してメディアを利用しようとするほど資本主義的になります。このように、90年代後半以降日本社会で急速に進行した、金融ビックバン、グローバル金融、厳格な不良債権処理、投資銀行と直接金融中心の市場原理至上主義、活発なIPOやストックオプションの広まり、プライベートエクイティの影響力増大、株主主権の企業統治、金融利権政治、二世・三世議員の増加、劇場政治とメディアコントロールなどはいずれも資本主義的*(3) であるという共通点を持ち、この時期以降の金融グローバリゼーションと日本社会の変容をうまく説明できるような気がします。・・・この点も後述します。

さて、現在のグローバル金融・資本市場において、お金を大量に保有する主体は、自ら資本を保有する「資本家」とは限りません。80年代以降、株式市場の主体が個人から機関投資家に大きく変容した機関投資家現象、更に90年後半以降、IPOブーム、プライベートエクイティなどのファンド、ノンリコースファイナンスなどが大幅に拡大したことによって、二十世紀前半に想定されていた「資本家」とは全くイメージの異なる金融専門家が大量の資本を管理するようになり、グローバル金融の主人公とも言える、国際金融資本が生まれます。投資銀行やユニバーサルバンクなどの大手金融機関で働く金融専門家はもちろん、一個人が大きな組織の後ろ盾を必要とせずにヘッジファンドやプライベートエクイティの運用会社を設立し、莫大な資金を運用することも一般的になりました。昨日まで証券会社で働いていたエリートサラリーマンが、何の歴史もない新会社を設立すると同時に、かつての自分の顧客から数百億円の資本運用を受託すると、ノンリコースローンの貸し手は、この何の実績もない会社に対して、取得資産のみを担保に大量の資本を貸し付けます。

このような国際金融資本の大きな特徴は、投資収益率が資本の額・・・すなわち社会における影響力の度合い・・・を決定することです。運用資産、運用方針、市場環境、個別事情などによって非常に大きな差があるため、実体はそれ程単純ではないのですが、誤解を怖れずに大雑把なイメージで表現すると、年率15%で運用する金融専門家には100億円、20%で運用する者には1,000億円の資金運用が任される感覚です。このため、国際金融資本とそれを運用する金融専門家にとって投資収益をいかに高めるかが、自らの存在意義に直結する最優先課題となります。このような金融専門家は、ファンド、M&A、資金調達などを通じて、大量の不動産、企業資産、企業経営に大きく関与し、資本主義的な存在といえます。そして、彼ら金融専門家が大量資本を調達する場がグローバル金融・資本市場であり、特に90年代後半以降、このグローバル金融・資本市場が現在の資本主義制度を支える重大な要素、という関係が成立しており、グローバル金融・資本市場がどのように変容するかが、資本主義制度の将来を決定付けるという構造になっていると言えそうです。

資本主義の四つの幻想
ところが、このような「資本の量が社会の物事をコントロールする」、すなわち、「グローバル金融・資本市場が主導する」資本主義は、その存続に関わる重大な欠陥を抱えていると思います。90年代前半に突然崩壊した社会主義体制は象徴的な事例ですが、全ての社会制度は、それがどれ程頑強に見えるものであっても、社会を豊かにしない、という矛盾が顕在化した時点で、容易に消滅します。人間が作ったもので永遠に続いているものはありません。資本主義だけが永遠に続くと考える理由はあるでしょうか。逆に考えると、矛盾を内包する社会が存続・成長するためには、そのシステムが効率的で、社会を豊かにする、という幻想が不可欠であり、現在の資本主義は四つの幻想によって支えられています。

①金融・資本市場は効率的なしくみである
②競争原理が社会の効率を高める
③経済成長が社会を豊かにする
④富の蓄積が社会を豊かにする

それぞれについて本稿で詳しく後述します。

・・・本稿での議論の一切は、例えば「資本主義は悪である」といったような、政治的主張や制度批判、資本主義崩壊の予言、その他の個人的な主義主張や隠れた意図とは無縁のものです。本ウェブサイトの内容の一切に関して一貫するテーマは、「最も効率的な事業経営に関する経営科学的な考察と分析」です。最も効率的な事業経営の実現において、現実を直視し、将来の社会・市場変容を予測する作業は重要な要素であり、本稿の議論はそのための現状認識の一つのアプローチです。また、本稿の現状認識が正しいとも、唯一のものであるとも主張するものではありません。

【2008.6.21 樋口耕太郎】

*(1) アルビン・トフラー、ハイジ・トフラー著 『富の未来』、山岡洋一訳、講談社、2006年6月など。特に下巻第8部「資本主義の将来」には、興味深い記述があります。

*(2) 資本主義の崩壊という表現には様々な語弊があることは事実です。二十世紀の二大社会システム、資本主義と社会主義は、いずれも政治と経済が不可分として成立したため、資本主義の「崩壊」という論調は、国体・政治・社会 制度の革命として捉えられがちで、歴史上革命に付随する血なまぐさい内戦・粛清・混乱が連想されがちです。 またこのフレーズは、怪しげな占い師や、宗教家や、金融詐欺師のセールストークに多用されたり、それらに比べると幾分まともなものであっても、売らんがための雑誌見出しや書籍マーケティングのコピーなどに使われることが少なくありません。本稿では、「資本主義の根本的な性質の変化、すなわち、資産の概念、 資本の概念、企業 の概念、組織の概念、通貨の概念、金利の概念、市場の概念、金融の概念、などの本質的な変容」という意味において使用しています。

ちなみに、論証のための事例というよりもイメージに近いのですが、現代においては政治と経済の体制変化が必ずしも連動しないケースが多く生じています。ベルリ ンの壁崩壊(1989年)と東西ドイツ統合(1990年)、ソビエト連邦崩壊(1991年)、中国における、鄧小平の改革開放政策(1978年)、社会主 義市場経済政策(1992年)、香港返還(1997年)と一国二制度の社会変動、などをみても、社会制度や政治的な枠組みの革命的変動がなくても・・・す なわち、内戦などの社会的な混乱を伴わなくても、経済制度が「一瞬」といって差し支えないほどの短期間に一変することは、それほど特別なことではありません。

ポスト資本主義の環境を想像する際、社会主義でなければ資本主義、資本主義が崩壊したら新しい社会制度、というほど単純でもない筈です。例えば、日本は「世界で最も成功した社会主義国」と揶揄されることがありますが、この表現はそ れ程的外れではありません。現在の中国が社会主義国家であるということを社会実体からうまく説明することは困難ですし、マルクス主義国家として成立した旧ソビエト連邦と、アメリカ帝国主義へのアンチテーゼとして革命を成就し、当初は必ずしも意図していなかったにも関わらず、結果として社会主義国家体制を選択したキューバではその中身は大きく異なるでしょう。日本でも90年代後半以降、グローバル金融市場の拡大と時を同じくして、社会的な格差が急激に拡大しはじめるなど、実質的な社会変容が大きく進んでおり、「世界で最も成功した社会主義国家」の看板を下ろさざるを得ない状況になりつつあるようです。恐ら く、ポスト資本主義の社会体制も決して一様ではなく、また、右から左へとページを捲るように移行するものでもなく、社会的・歴史的・文化的・経済的な背景ごとに個別のペースで様々な変容を遂げるのでしょう。

少なくとも日本においては、資本主義国家の政治的、外形的な体制を残したまま、その経済・社会構造が本質的・根本的な大変容を遂げるということかも知れません。現在の非効率なグローバル金融・資本市場の欠陥を補うような次世代金融システムが芽生え、社会で機能し始め、やがて国家財政あるいは中央銀行の機能不全、大手金融機関、国際金融資本の大量破綻、実体経済の構造不全などをきっかけに、その主体が加速度的に交代して行くようなイメージです。・・・ドミノが倒れるように。

*(3) これに対して、かつて日本社会の特徴といわれた、株式持合、正社員の終身雇用、豊かな中産階級、高い貯蓄率、護送船団方式とメイン バンク制度、などは必ずしも資本の量が物事を決めるしくみではありませんので、非・資本主義的な社会を構成する要素であり、日本の「世界で最も成功した社 会主義」というイメージに重なります。

現在という時点は、ウォール街主導で世界に広まったグローバル金融と資本市場の枠組みが、量的・質的に大変容する前夜であるように思えます。恐らく20年先の未来から今を振り返ると、昨年7月以来世界金融の大問題になっているサブプライム危機が、その後の大変化の分岐点として語られるのではないでしょうか。変化の次に誕生する「オセロゲームのコーナー」、次世代金融市場の特徴を大胆にイメージしてみると:

①質が量に勝る影響力を持つようになるでしょう。市場シェア、資金量、事業規模、顧客ベースなどが事業的に有利になるとは限りません。

②資本市場から企業金融へ、金融プロフェッショナルから事業経営者へ、グローバル市場から金融の地産地消へ、株主からステイクホルダーへ、それぞれ金融機能と主導権が移行するでしょう。それらの結果、企業のステイタスであった株式上場や大都市の立派な本社が経営上のハンディキャップとなり、資本主導のM&A、事業の集積、フランチャイズ戦略などの拡大再生産事業モデルが非効率な経営選択と考えられるようになるでしょう。

③企業統治と情報開示が企業金融の最重要テーマとなるでしょう。ただし、既存資本主義・資本市場で議論されている「企業統治」「情報開示」の発想とは根本的に異質、かつ圧倒的に効率的なフレームワークが生まれ、低コストかつ容易に機能するようになるでしょう。

④「お金持ちのお金を更に増やす」という資本主義が社会的に影響力を失い、「人と社会を豊かにするためにいかにお金を使うか」、というテーマに対応する企業が、大量の資本と優秀な人材を容易に集めるようになるでしょう。企業経営者は、お金を増やすことに加えて、お金を(有効に)使うこと、を重要な経営課題としてステイクホルダーから求められることになるでしょう。

⑤そして、・・・この辺は誰に言っても笑われそうですが・・・、市場の大変化と次世代金融のフレームワークを前提としたとき、沖縄をベースとする金融事業は世界的に見ても極めて高い潜在力を秘めている、というのが本稿の仮説です。

一見突飛な次世代金融市場の世界観ですが、一定の論理的な根拠と合理性があります。次回以降、資本主義と金融・資本市場のメカニズムとその欠陥、サブプライム危機と今後の社会・経済・金融環境の大変動、この大変化に適応する次世代金融の青写真、そして、沖縄がなぜ次世代金融の中心になり得るかなど、トリニティのユニークな次世代金融論をご紹介します。

【2008.5.26 樋口耕太郎】