7月4日に開講された第12回最終講義「心の経済」の全講義をノーカットでご覧いただけます。
政治は人を幸せにするか?
政治は何のためにあるのだろう? 私は人々の幸福のためにあると思っていたのだが、少なくとも各派の選挙公約を見る限りそうではないらしい。
例えば、保守系の公約によると、アベノミクスによって雇用を創出するという、デフレを脱却するという、GDP600兆円を実現するという、待機児童を解消するという、経済成長の成果を子育て介護などの福祉分野に再分配するという。それらのすべては価値あることだと思うのだが、しかし、それらがどのようにして私たちを幸福にするかという因果関係はまったく説明されていない。「公約が実現すれば国民は幸せになる」という前提に立っているのは理解できるのだが、この前提は本当に正しいのだろうか?
Photo by Nao iizuka (CC BY 2.0)
革新系の公約もベクトルが異なるだけで同じ状況に見える。沖縄選挙区では必ず基地関連のことがらが公約にのぼる。 憲法9条を維持し、日米地位協定の改定に取り組み、オスプレイ配備を撤回させ、米軍基地返還を求め、跡地利用や基地従業員の雇用問題に取り組むという。沖縄の基地問題は日本社会の矛盾が集約されたような重大なテーマである。しかし、あえて問いたいのは、これらの公約が100%実現したら、私たちは幸せになるのだろうか?
反論される方は、少し立ち止まって考え直してみてほしい。
例えば、政治は自殺を考えている人に生きる動機を与えられるだろうか? 政治は虐待の痛みを虐待者に伝えられるだろうか? 政治はシングルマザーを正社員に登用しながら(あるいは、登用するからこそ)売り上げが増えるような企業経営を浸透させられるだろうか? 政治は手取り月12万円で働く沖縄のホテル従業員にやりがいのある仕事を提供できるだろうか? 政治は毎朝仕事にいくのが楽しみな75歳を増やすことができるだろうか?
Photo by 初沢亜利
政治は沖縄の醜い埋め立てと無粋な架橋を止められるだろうか? 政治は自立心を失った国民の魂を取り戻せるだろうか? 政治はアトピー性皮膚炎や花粉症の蔓延を治せるだろうか? 政治は農薬漬けと添加物漬けで毒薬と化した我々の食を正常化できるだろうか? 政治はインシュリンや常備薬がなければ1週間と生きられない病人だらけの高齢化社会を修正できるだろうか?
政治は子供と一緒に遊ぶ両親を増やすことができるだろうか? 政治は夫婦の絆を深めることができるだろうか? 政治は役人が公正に働く動機を生み出せるだろうか? 政治は飲み屋での知的な議論を増やすことができるだろうか? 政治は女性の役割に深い関心を持つ男性を増やせるだろうか? 政治はLGBTへの偏見を減らせるだろうか? 政治は従業員の立場で考える経営者を増やせるだろうか? 政治は思いやりを目的とした経済を実現できるだろうか?
Photo by 初沢亜利
これらすべてのことは、一人ひとりの幸せに直結することばかりだと思うのだが、これらが選挙公約でないのはなぜだろう? これが政治の仕事ではなければ、いったい政治は何のためにあるのだろう?
政治が私たちに提案することは、少なくとも私の見る限り、そして驚くことに、ほぼそれ以外のことなのだ。経済成長であり、政治改革であり、消費税率の改定であり、消費税率の維持であり、憲法改正であり、憲法の維持であり、基地の移設であり、基地の撤去であり、貧困対策の補助金であり、子育て支援の制度であり、学費補助であり、医療費の軽減負担であり、これらがそのまま公約になっている。
乱暴な一般化と批判されるかもしれないが、すべては大きな意味での資本の再配分なのだ。そして、適切な資本の再分配が実現すれば、人々が幸せになるという前提で政治が成り立っているように見える。人々が欲するお金を、政治家が再分配する。それが、はじめから政治という構造の持つ機能なのだ、と。
因果関係は逆かもしれない
実は、因果関係が逆だということはないだろうか? 各派の選挙公約が謳うように、経済成長や、数々の改革や、福祉政策や、基地問題を解決することが私たちを幸せにするのではなく、私たちが幸せになることで、これらの社会問題が解決していくという可能性だ。政治が人々の幸せを目的にしていないことが、数々の社会問題を生み出している原因ではないだろうか?
現に、保守でも革新でも構わない、各派の選挙公約が100%実現して、国民がより良い仕事についても、所得が増えても、パートナーと家計を共にしても、病気が治っても、長生きをしても、貧困が根絶されたとしても人々が幸せになるわけではない。一部上場企業に勤めているからといって幸せな人生を送ると は限らないことから明らかなように、人は「良い仕事」に就くから幸せになるわけではなく、幸せだから今ある仕事を生かすことができるのだ。
同様に、高給だから幸せなのではなく、幸せな人が高い所得を得る傾向がある。パートナーを見つけたから幸せになるわけではなく、幸せだから理想のパートナーを惹きつける。健康だから幸せというよりも、幸せだから健康に生きられる。長生きが幸せだとは限らないが、幸せな人は長生きだ。貧困が根絶されれば幸せになるのではなく、幸せな人は貧困に陥りにくい。基地問題が人を不幸にしているという側面はもちろんあるが、人々が不幸だからこそ基地問題が熱を帯びているという面はないだろうか?
Photo by 初沢亜利
幸せに働く人たちは、お互いに生きる動機を高め合い、人の痛みと喜びに共感し、社会的弱者に心を配り、女性を大切にし、自分らしく生き、自立心を持 ち、自分にも他人にも嘘をつかず、家族に優しく、仕事だけの人生に偏らず、他人に関心を持ち、そして何といっても生産性が高く、離職率が低く、顧客満足度 を向上させ、組織の生産性を高め、企業の利益を増加させる。
幸せに働く人たちの家族もまた幸せである傾向が高く、家族の医療費は減じられるだろうし、子女たちの教育問題も、虐待やネグレクト、依存症や貧困な どの社会問題も生じにくくなるだろう。経済的発展が私たちを幸せにするのではない。私たちが幸せだから、社会と経済が正常化するのだ。
Photo by 初沢亜利
政治は今まで、政策を作り、法律を変え、制度に変更を与えることで、いわば演繹的に社会に影響力を行使しようとしてきた。制度の改変や資本の再分配を目的とするのであればこの方法は有効なのだが、人々の幸せを目的とする場合は、このやり方がまったくと言っていいほど機能しない。
政治がすべきことは社会制度ではなく社会に対する見方を変えること
もし政治が、人々の幸せを第一に考えるのであれば、発想を真逆にする必要があるのではないか。
20世紀の社会主義国家の失敗から私たちも学ぶべきだと思うのだが、私たちが理想の社会を作ろうとするのであれば、概念的な「理想」をベースに現実社会を構築することはとても難しいのだ。それよりも、一人の幸せな生き方、一つの幸せな組織、一つの幸せなミニ社会を作り上げて、それを拡大再生産する方がはるかに現実的だ。いわば帰納的に社会を変えていく方法だ。その時政治は主役ではなく、むしろ有能な黒子になる。そして政治とは正にそうあるべきものではないだろうか。
日本で最も幸せな従業員、幸せな企業、幸せな組織、幸せなリーダーたちを鉄の下駄を履いてでも探し出し、彼らの成功が社会全体に拡散する手助けをすることができれば、驚くほどの低コストで社会を正常化することができるだろう。制度や法律を整備するのもいいのだが、本当はそんなことすら必要ない。補助金を出すのは逆効果なくらいだ。人の心をはっとさせる異質な事業を社会の「脅威」とみなすのではなく、政治が温かく応援するだけで良い。
人々は、政治権力の強さを知っている。意識的にであっても、無意識的にであっても、社会的に許容されないと感じれば、消極的になってしまうものだろう。政治がこんなやり方を評価してくれるのだ、と感じた瞬間に、人々の個性が開花してあっという間に社会にイノベーションの野火が広がる。
先日マイケル・ムーア監督の新作『世界侵略のススメ』を観てきた。彼が世界を回って母国アメリカにインスピレーションを持ち帰るという内容。イタリアでは一般的な企業で有給休暇が年間合計8週間あり、その年に消化できなかった有給休暇は翌年に持ち越される。年末には「13カ月」目の給与が支払われるが、「休暇にはお金が必要だから」という理由による。ブランド製品を30年間作り続けているラルディーニ社の従業員は、2時間の昼休みに自宅に帰って家族と一緒に料理をする。
Photo by Randy OHC (CC BY 2.0)
ポルトガルでは15年ほど前の法改正以来、覚醒剤、麻薬、マリファナなど一切の薬物使用が罪に問われない。これによって麻薬関連の裁判、警察、刑務所などの費用がゼロになり、同時に薬物の使用者が激減したという。誰が使っても合法ならば、ちゃんと病院で処方してもらったり、人に相談したり、治療を受けたりするようになるということのようだ。
Photo by Kyle Butler (CC BY 2.0)
ノルウェーでは死刑が廃止されて久しく、警察官は武器を携帯せず、どれだけの凶悪犯でも最大21年の刑期しかない。受刑者の部屋は一戸建てで窓の外には緑の景観が広がり、図書、ビデオゲーム、テレビ、冷蔵庫、キッチンにはナイフ一式が揃っていて、朝食は各自で作る。森の中ではチェーンソー(!)を使って木材の切り出し作業を行い、有機農園では受刑者と刑務官が一緒に収穫作業を行う。
日本の貧困家庭よりもよほど豊かではないかと思えるほどの環境で、「犯罪者を罰する」という発想はそこにはない。刑務官たちにとっても、受刑者の刑期が最大21年であれば、彼らはいつか必ずここを出て、自分たちの隣に住むかもしれない。基本的な哲学は、「より良い隣人になってもらうための刑期」なのだ。アメリカの再犯率が8割であるのに対して、ノルウェーの再犯率(2割)は世界最低水準だそうだ。ちなみに、ノルウェーでは女性閣僚の割合が53%で世界1位である。
Photo by Municipal Archives of Trondheim (CC BY 2.0)
例えばこんな小さな事例の一つ一つが、私たちの未来のプロトタイプになり得る。世界はもちろん、日本国内にもまだまだ私たちの「未来」が埋もれているはずだ。私が政治家だったら、そんな幸せな未来を発掘して広めることを公約にしたいと思う。
*本稿は「ポリタス」(2016年7月5日)に掲載された。
浦添市のコミュニティFM(FM21・76.8MHz.)で沖縄選出の参議院議員・島尻安伊子さんがホストするラジオ番組「あい子のチャレンジラジオ」、3月7日放送分のバックナンバーがアップされています。
http://www.stickam.jp/video/182416538
3月7日の放送(2月22日収録)にゲストとしてお招き頂き、1時間弱沖縄について、事業再生について、有機農業について、南西航空についてお話させて頂きました。
沖縄を人生の本拠とすることを心に決めてから10年になりますが、この地で起こった一連のできことを通じて、人生における優先順位が180度変わってしまい(あるいは、元に戻ったというべきでしょうか)、それまで持っていたものを文字通りすべて捨てさせられたような気がします。本当に大事なものを見つけるということは、それを探し求めるのではなく、余計なものを捨てるということなのだと、今では理解しているところです。
後半話題になっている南西航空の再生は、こちらもご参考頂けます。
http://www.trinityinc.jp/updated/?p=3145
ホスト:
参議院議員
島尻あい子
ゲスト:
沖縄大学人文学部国際コミュニケーション学科准教授
トリニティ株式会社 代表取締役社長
樋口耕太郎
【樋口耕太郎】
卒業シーズンである。この春社会に飛び立つみんなに、私の(勝手な)キャリア論をお贈りしたいと思う。
先日東京で成功した沖縄出身の起業家の方とお話をした。社会人のキャリアはVSOPで積み上げるのだという。20代は馬力(Vitality)を発揮し、30代は専門性(Specialty)を磨き、40代は独自性(Originality)を発揮し、50代は人間性(Personality)で人の役に立つのだそうだ。
まったく同感だが、7年刻みの方が私にはより実感がある。沖縄に来て以来10年間、2万人の人たちと1.5万時間対話してきて感じたことは、生産性の高い人生を歩む人たちは、社会に出ててからおおよそ7年刻み、29歳、35歳、40歳が大きな転機になっているような気がするのだ。
* * *
Vitality: 29歳までは、与えられた環境で成果を出す時期。この時期あなたが社会に対して提供できる価値は、あなたの体力と時間くらいしかない。これを出し惜しむと、社会はあなたを相手にしなくなる。置かれた条件の善し悪しに悩む前にまず、死ぬほど働いてみるべきだろう。・・・この時期に若くして環境に文句を言う人は、残りの人生で迎える苦難をことごとく環境と人のせいにして人生を終える。
社会という異質な世界観に向き合わされ、それまでのちっぽけな常識が叩きのめされ、世界が問題だらけである事実に目を開かされるが、悩む前にまず、その矛盾だらけの社会のルールに則って、大きな成果を出すべきだろう。特に最初の3年間、与えられた環境に文句を言うのは、せめてトップになってからにするべきだ。
一見理不尽な環境や試練は、意味があって与えられている。こんなことに何の価値があるのかと失望したくなるかも知れないが、試練の本当の価値はそこで踏ん張って成果を出した後になってみなければ決して分らない。大丈夫、すべての試練はオーダーメードでやって来る。あなたが乗り越えられない試練は、決して与えられないようにできているのだ。
* * *
Specialty: 35歳までは、あなたにしかできない仕事を成し遂げる時期。特定の分野を徹底的に追求して、その分野の第一人者になろう。仕事のできる先輩や、憧れの人物をつかまえて、疑問点を片っ端から質問し、大いに恥をかきながら失敗をくり返し、関連する資料を徹底的に読み込み、実績を積み上げると、意外なくらいに早く頭角を現すことができる。特定分野の第一人者になることは、実は、それほど難しいことではない。よく言われることだが、大きな山の下の方は込み合っているが、少し登った上の方は驚くほど空いているものだ。
特定の分野で一目置かれる存在になるということは、その分野の発展に責任をもつ立場になるということだ。あなたの組織にとって、その分野の成功はあなた次第ということになる。これは、あなたが今まで与えられきた環境を、自分の手で変える時期に来ているという意味だ。29歳までに疑問を持っていた矛盾点、非効率な点、理不尽な点をあなたが自ら改善することで、本格的な付加価値を組織にもたらすことになる。
・・・逆に、与えられた環境に甘んじることを覚えると、残りの生涯も妥協しながら生きることになる。いずれにせよ、35歳が重要なボーダーで、この年までに、環境に妥協せず、自分の価値観を生きる覚悟を定めなければ、以後、発想の転換を伴う環境や分野では殆ど使い物にならない。
* * *
Originality: 40歳までは、自分の価値観で社会に挑戦する時期。ある人は独立部門を率い、ある人は新たな世界観を伴う革新的な手法で成果を上げる。世の中に存在しないものを生み出し、新しい組織を作り、収益に責任を持つようになる。
目先の収益を生むことよりも、その収益が生まれる本質的な理由を理解することが重要で、やがて現象の背後に存在する社会と経済と組織の本質に意識が向けられるようになる。目に見えないものを見つめるようになるため、目先の現象や結果やトラブルに一喜一憂しなくなる。その現象の中で、自分に何ができるのか、 真剣に考え、自分に向き合い、戦略的に生きるようになる。
この時期にあなたが生み出す最大の価値は、あなたが社会に示す独自の価値観だ。これまで世の中に存在しなかった、商品でも、働き方でも、組織のあり方で も、コスト管理の方法でも、サービスのあり方でも、市場の解釈の仕方でも、何でも構わないのだが、皆があなたの存在を知って、働きを見て、商品を手に取って、インスピレーションを受け、人生が少しでも変わるようなものだ。
・・・この時期に自分の価値観で「打って出る」ことを怖れると、残りの生涯、他人の価値観を生きることになる。
このタイミングで人生の折り返し地点を迎え、厄年と言われる3年間にかかり、これまでの生き方、考え方、働き方、人との接し方、人生の目標のあり方、仕事の価値などを、深く考えさせられる時期がやってくる。今まで積み上げてきた10のものの中から本当の価値のある1つを選んで、その他の9を捨てる必要が生じるかも知れない。捨てるということによって、生産性が飛躍的に向上するというパラドックスを経験するだろう。
* * *
Personality: そして、厄年が明けた43歳以降、本当に価値のあるものを選択し、社会に前人未到の価値観をつきつけ、独自の成果を実現する。あるものは変人、あるものは狂人、あるものは異端と呼ばれるが、社会を切り開くのは彼らである。
しかしながら、自分の生き方が定まったとしても、それが社会において本当の価値を生むためには、知識でも技術でも経験でも能力でも、まして資産でも地位でもなく、裸の人間性がものを言う。知性が、行動となり、習慣となり、血肉となって人格になる。自分が発する言葉のひとつひとつ、人への接し方の一瞬一瞬、心のありかたの数々が、自分と他人の人生に寄与するようになるためには、これまでとはまったく異質で、長く、深い心の筋トレが必要だ。
このような生き方の集大成が、早ければ50歳くらいから形になりはじめる。社会に寄与し、人の役に立ち、人生の意味が少し分りかけてきたような気になるのだ。
* * *
最後に、これらのすべてに必要なエネルギーは、100%食べるものから補給される。自分が口にするものをおろそかにしないように、食べるということを決して甘く見ないように。
健闘を祈ります。
【樋口耕太郎】
誰しもが「自分の好きなことをせよ」、という。しかし、このシンプルなメッセージの意味するところは深い。例えば、自分の今までを振り返っ て、「好きだから」という理由で何かを選択したことがあっただろうかと考えて見るのだが、実は一つもなかったということに気がついて、驚いている。
確かに、自分は、100%自分のしたいことを選んで来たと思う。そして、選んだことの殆どを、心から愛したと思う。しかし、好きだから、という理由で選択したことは、一度もないのだ。
大学の進路を選んだときも、その他の殆どの学生と同様、実は中身などよく解らなかったし、卒業後の就職先に野村證券を選んだ理由も、当時日本でもっとも厳しい会社だとされていたからだ。それでも想像を超える厳しい仕事の詳細を事前に知っていたら、間違いなく選んでいなかっただろう。
ウォール街に勤務することになったときも、「不動産金融」という分野に、特段の関心はなかった。今でこそ花形という見方も可能だが、当時、投資銀行の社員が不動産ファイナンスなど、亜流のビジネスを担当している、と悩んだものだ。
12年間お世話になった野村を離れて移籍したレーサムも、私が共同経営を担当した4年間は、日本の不動産流動化ビジネスの先端を走った時期があったが、参画する前は、中古マンションのセールス会社の域を出ず、随分垢抜けない会社に加わったなという気分を味わったりもした。
自己資金で取得したサンマリーナホテルも、別にホテルを所有することや運営することが好きだったわけではない。むしろ、ホテルに強いエゴやこだわりがあり、ホテル事業を好きな人が投資したら、きっと失敗するだろうと思っていた。
多くの人が、「大好き」という理由で訪れる沖縄も、私の場合、好きだという理由で住むようになったわけではない。取得したサンマリーナホテルが偶然沖縄にあったということがきっかけだ。
事業再生専業会社、トリニティ株式会社を起業するまで、会社の経営をしたいと思ったことは、一度たりともなかったし、多くの青年のように、社長になることが夢だったこともない。
有機野菜の流通業、ダイハチマルシェの再生を手がけた理由も、決してその分野を目指していたからではなかった。
4月からお世話になっている沖縄大学も、過去にその職を望んでいたわけではなく、有り難いご縁を頂いたにすぎない。
しかしながら、断言できるのだが、私はそれまで関わってきた全ての会社や、組織や、チームや、仕事を心から愛して来たし、その瞬間ごと、それぞれの仕事に関わったことの幸せを、とても強く噛み締めた来た。
結果として、全ての瞬間を全力で過ごす自分や、自分の役割を深く愛していた自分が、心から好きだったのだと思う。
私の経験から思うのは、別に仕事(自体)を好きになる必要はないと思う。それどころか、好きなことを選ぶと言うことの意味は、嫌いになれば辞めてしまうということだ。そんな一貫性のないことで人に信頼されるとは考えにくい。
どんな仕事であっても、どんな地域に住んでいても、瞬間瞬間の自分が好きでいられるような、そんな選び方をするべきではないかと思うのだ。
【樋口耕太郎】
最近は教育について深く考えさせられています。例えば、昨日の新入生の演習(注:沖大は一年生からゼミがあります)。図書館の使い方の共通オリエンテーションを終えて、ミニテストをするのが学科の基本プログラムです。
オリエンテーションのときにとったメモは、ミニテストに持ち込んで参照して良い旨伝えてあるのですが、一人や二人はそのメモを忘れてくる生徒がいます。必然的に、ミニテストの20分間は、彼にとってとても非生産的で、少なからず惨めな時間を過ごすことになるわけです。
私も、学生の頃は宿題を忘れる常習犯でしたので、課題をしていない状態で、いつ先生から指名されるか怯えながら、クラスにぽつんと存在するときの惨めな気持ちが、いかに最悪なものかよく解ります。
昨日は思わず、今の私がメモを忘れた彼の立場だったら、どのような20分を過ごすだろうか?と考えざるを得ませんでした。どのような事情があろうと、メモ を忘れてしまった事実は変えられませんし、メモがなければ殆ど回答することはできず、このままでは人生の20分間をどぶに捨てることになります。
私が彼に(そしてクラスに)提案したのは、自分が理解する回答を終えた後の、「空虚な」時間の使い方です。どんな時間の使い方をしても、20分間はミニテ ストのために、そこに座っていなければならない。メモがなければ、点数も大してとれない。たとえ自分が招いたことであっても、ここまでは現実。
思考実験をしてみたらどうだろう、と。あなたの人生が、仮にあとその20分しかないとして、その20分では、かならずこのミニテストを受けなければならな いとして、あなたはどのような時間を過ごすだろう?人生最後の20分を、惨めに終えるのか、それ以外に時間の過ごし方はないのだろうか?
このような思考(問い)を経ることで、あなたの人生の貴重な20分間を、全く異なる意味において過ごすことはできないだろうか、と。
「私が、メモを忘れた君の立場だったら、この20分間で、自分が沖縄大学の図書館長だったら、生徒の立場で利用し易い施設にするために、どのような運営をするかを考えて、それを回答として記述するけどな」・・・
・・・「確かに、大半の回答は誤りになるかもしれない。点数はろくなもにはならないかもしれない。そして一方で、惨めな白紙の解答用紙を提出しても、結果としての点数は同じだろうと思う。」
・・・「両者の生徒にとって、20分ミニテストをしなければならないという人生の制約は同じ、点数も同じ(最悪だろう)、外見上は全く相違なく時間が流れて行く」
・・・「確かに外見上の現象は全く同じかもしれないが、対照的な20分の過ごし方をした二人の生徒が、全く異なる人生を歩むであろうことは断言できる。ど うせ20分この場所にいてミニテストをしなければならいという、制約は同じ、しかし全く同じ環境においても、全く異なる人生を選択できと思う。」
・・・「この20分には、そういう意味があると思う。多分、ミニテストで学ぶことよりも、このような思考実験を経て、自分の人生を選択することの方が、よほど重要な学びなのではないかな?人生、20分で学べることは、意外に多いものだよ。」
【樋口耕太郎】
良い仕事に就くから幸せなのではない、
幸福だから良い仕事に就けるのだ。
理想のパートナーに出会えたから幸せになるわけではない、
幸せだから理想のパートナーを引き寄せるのだ。
好きな仕事に就くことが重要なのではない、
今の仕事を好きになるからこそ、もっと好きな仕事を任されるのだ。
才能があるから成功するのではない、
成功を信じたからあなたの中の才能が目を覚ますのだ。
天才だから世界を変えたのではない、
世界を変えようと望むものが天才を発揮するのだ。
【樋口耕太郎】
ハーバード大学が12000人以上を対象に、30年以上にわたって追跡した研究によると、家族や友人が幸せを感じていると、自分も幸せを感じる可能性が15%高まるという報告がある。
驚くべきことに、幸福は直接面識のない人にまで影響する。あなたの友達の友達を直接知らなくても、その友達の友達が幸せな人であれば、あなたの幸福度は10%高まる。
このハーバード大学による大規模な社会的実験によって、人の幸せは自分から数えて3人目まで影響することが分かっている。
具体的には、あなたの友達の友達、および友達の友達の友達の幸福度が高いと、あなたの幸福度は6%向上する。逆に、あなたが幸せだと、例えば、あなたの → 配偶者の → 同僚の → 家族(!)が幸福を感じる可能性が6%高まるということでもある。
「6%の幸福」は、決して小さなものではない。ハーバード大学の研究では、年収が1万ドル増えても幸福度は2%しか増加しない。幸せになりたければ、収入を増やすよりも、幸せな友人を引き寄せる方が遥かに効果的だ。そして、幸福な人を引き寄せる最良の方法は、人を幸福にすることだろう。
身近な人間関係は、私たちが想像するよりも遥かに大きな影響を及ぼし合い、拡散する。誰かを幸福にするように行動すれば、その効果はほぼ確実に自分を含む自分の大切な人たちにもれなく返ってくる。
周囲の人を幸せにする手助けをすれば、結果として、それは自分自身に対する最大の投資になる。「情けは人のためならず」は科学的に証明された事実ということだ。金融不安、世界経済の混乱を控えた不況期に最も有効な投資は、これに勝るものはない。
ニコラス・クリスタキス著『つながり』 講談社 (2010/7/22)
【樋口耕太郎】